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【2019 輪廻転生】

言語から概念を切り離し記号を切り離したら何が残る?(チョムスキーをめぐって)


チョムスキー 言語の科学』というインタビュー集を読んでみた。

 チョムスキー 言語の科学――ことば・心・人間本性


チョムスキーってなんかこんなヘンテコなことを言ってるみたいだけど、「まさかホントかね」と弱々しく眺めていたことを、なおさら輪をかけて断言しているので、驚くほかない。

ヒトの脳に生得的に埋め込まれた「言語能力」には、「進化なんか関係ねぇ」「語彙なんか関係ねぇ」「コミュニケーションだって関係ねぇ」。ヘンテコなこととはそういうこと。

それどころか、私が読み取ったところ、「概念とは言語能力だが、概念は外界の事物とは何も関係ねぇ!」

じゃあヒトの脳だけに突如として備わった「言語能力」って何よ? ということになるが、周知のとおり「再帰(回帰)」もしくは「併合」と称されるいわば記号操作ができる能力、ということになる。(それって「魂」とか「余剰次元」とか「超自我」のような類? …かというと、そうでもないのだろう)

ともあれ、今回最もまじめに興味深いのは、「概念が外界の事物とは何の関係もない」というふうなことをチョムスキーが考えているらしいこと。「言語能力」として探索している対象が極端に絞られていることを思わせる(その対象はもはや存在するのかという気すらする次第)

再帰や併合という操作や能力が言語もしくは知能の根幹だという洞察は最大級に面白いわけだが、「それがヒトの脳にある」というチョムスキーの答えには、私はどこか違和感があるのだ。「じゃあどこにあるんだよ」と問われたら――  私に言わせれば「それは脳も生物も地球もこの宇宙も超えて普遍にある」……無理な主張だろうか?

あるいはこうも言えるのではないか。言語の根幹の法則のようなものが、「脳にある」とも捉えてもいいし、「この宇宙を超えてある」と捉えてもいい。どちらも似たような説明だ。それはたとえば、ヒトや生物の「動く」という能力が、「脳にある」のか、「この宇宙を超えてある」のか、と議論するのも同じ。

――さて、現実に帰ろう。


 *


(続き)

今回いちばんの発見と驚きは、チョムスキーが言語をきわめて限定して捉えていることを知ったこと。ふつう言語は「発声されたり表記されたりしている記号」として捉えると思うが、そうした部分は「狭義の言語の結果(外部)でしかない」とみているフシがある。

しかも、同じく、概念というもの(=世界の事象をいかに分節するかの枠組みやその特性のようなもの)もまた、言語とはっきり切り離しているのだと知った。この発見にはいっそう驚愕した。そして、私などは言語への関心といったら概念への関心と渾然一体だったということに、むしろ気づかされた。

まとめて言えば、言語活動の始まり(ないしは原因)のようにおもえる「概念」も、言語活動の終り(ないしは結果)のようにおもえる「記号」も、どちらも「狭義の言語」ではない、という捉え方。

だけど、言語から、その一端の多くを担っていそうな概念というものと、さらにはもう一端の多くを担っていそうな記号というものを、どちらも切り離したら、「言語にはもう何も残らないのでは?」と素朴な疑問もわく。チョムスキーはいったい「言語」として何を見つめているのだ?

しかし、それゆえ初めて深く納得したのは――。チョムスキーが言語の本質とは「再帰性だ、併合だ、それだけだ」と主張するので、「えっと、それっと、どゆこと、さすがに」とやや首をかしげていたけれど、これほど言語を限定して捉えるのであれば、そうした奇妙な分析になる道理もあろう。

チョムスキーが、言語の本来の用途は「コミュニケーションではない」と言うのも、それゆえの帰結だろう。

そのコミュニケーションについては面白いことを言っている。《言語がコミュニケーションに使われるというのはまったくその通りです。しかし、人が行うあらゆることはコミュニケーションに使われていますよ。髪型とか、癖とか、歩き方とかね。ですから、たしかに言語もコミュニケーションに使われているんです》

それどころか、内面的な発話すら言語とは呼ばない。

《…我々の内面的な発話は、いったん表出された発話を再度内面化したものの断片である可能性が非常に高いということ、そして、本当の意味での「内面的発話」は内省によって到達できるものではない可能性が非常に高いということです》p.32

チョムスキーによれば、その内面のさらに奥の奥にある不思議な何かこそが、言語なのだ。いわば「ものごとの認知における原理的な操作そのもの」。それを「再帰性」「併合」「離散的無限」という用語で呼んでいるのだろう。


ちなみに、併合って何だ? 再帰性って何だ? という疑問は、以前 別の本を読んでだいたい解消した。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130303/p1


そして。

チョムスキーは、言語能力を自然淘汰による進化として探ることに対しては、常に尻込みしているようにみえるが、それもまた、言語を非常に狭く限定して捉えることからの帰結なのだろう。今回それも強く納得した。

というわけで、チョムスキーの言語論は「記号」とも「概念」とも「進化」とも関係が薄く、つまり、私個人が言語について抱いている関心の焦点は、ことごとく置いてきぼりにされている、ということがわかった次第。

それでもチョムスキーは、概念をめぐっては、ときおり、刺激的で意表をつく問いかけをする。

たとえば、《それら(概念)は普遍的であって、ニューギニアの原住民であっても、基本的に我々と同一の〈川〉の概念を持っているでしょう。しかし、どうしてそうなったのか、まったくわかりません》《しかし、〈川〉の概念を持っていることの一体何が有利だというのでしょう。我々が敏感に反応する諸特性が〈川〉にはあるらしく、しかもその諸特性と生存や自然淘汰との間には一切の関係が見出せないんです》p.92-93

さらに、チョムスキーの概念をめぐる独創的な断言、いくつか。

《〈家〉や〈ロンドン〉、〈アリストテレス〉、あるいは〈水〉の概念の性質がどんなものであっても――それらの内的表示がどんなものであっても――心と独立の外的事象や内的状態に直結してはいないんです》

私たちが共通してもつはずの概念は、この世の事象の構造には直結していない、というふうに受けとれるのが興味深い。いずれにせよ、概念はいかにして成立するのかという問いは、認知言語学の領域なのだろう。そしてチョムスキーは「そんなこと、どうせわからないよ」という立場を隠さない。

たとえば、《我々は〈家〉を〈本〉とは違うふうに使用しますが、それは〈家〉と〈本〉の間に何らかの違いがあるからでしょう。どうやって両者を有効な形で区別できるか、私にはわかりませんね》p.69-70

さらに、「とすると(略)人間がことばで自前の概念を表現したとき、同じような類の心をもった生き物にしか(略)実際には理解できない?」という質問に対し、《イヌに命令を教えるとき、イヌは何かに反応しますが、概念に反応するのではないんですよ》! これはこれで実に考えさせられる見解だ。

そして、「わからないから、どうでもいいよ」とチョムスキーが見限っている「概念とは何か」こそ、私には最も興味深い問いなのかも、ということが自覚されてくる。


ことし実は、『シリーズ 新・心の哲学1 認知編』(信原幸弘・太田紘史編)という本も読んだが、そこでも、面白いのは「概念」をめぐる考察だった。「思考の合理性」や「他者のこころ」といったテーマの考察も同じくすっきり納得しやすかった。

  シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

そして、同書を手にした最大の動機だった第2章「思考について考えるときに言語の語ること――言語学認知神経科学の観点から」(飯島和樹)は、まさにチョムスキーを踏まえた考察だが、思いのほか鬼門だった。問いはきわめて深く、底に達するには、私にはそうとうの努力が必要だと思った。

この本についてはまたいずれ。


チョムスキー 言語の科学』で、あと少しだけメモしておくと――

「幼児は周囲からわずかな言語の刺激しか受けないのに言語を完璧に習得するのは何故だろう」という謎が古くからあり、「言語能力はもともと脳にあるからだ」というチョムスキーの見解がその謎を解いた、ということになっている。しかし、同書でチョムスキーはさらに注目すべきことを言っている。

それは言語だけではないと言うのだ。

《…実際には成長の普遍的特性だからです。我々が腕や脚を持つことは刺激の欠乏特性です。栄養で決まるのではないですから》。そしてそれは《遺伝的賦与物と関係があると広く一般に考えられています》。手足が出来るのも言語が身につくのも学習だけではないと。

私もだいぶ前から、「言語能力は生まれつき脳に埋め込まれている」とチョムスキーは言うけど、だったら「歩行能力もまた生まれつき脳に埋め込まれている」と言えるよなあ、とじつは思っていた。

そしてここから―― チョムスキーが「言語」を「心が具体的にいろいろ揺れ動くこと」や「なにか喋ったり書いたりすること」とは違う何かだと捉えるのは、「歩行」をたとえば「手足が動くこと」とも「移動をすること」とも違う何かだと捉えることに似ている、ということに気づかされる。

つまり、「じゃあ歩行っていったい何のことだよ」とボヤキたくなるように、「じゃあ言語っていったい何のことですか、チョムスキー先生!」とボヤキたくなるのであった。