東京永久観光

【2019 輪廻転生】

砂粒であるより粉雪でありたい


そのうち必ず読もう。いいかげん読まねばならぬ。未読の名作小説というのは、しかし、そう思う度合いが強ければ強いほど、こうも思う。どうせいつか読む。なにも今読まなくても。だいいち今さら読んだって。そんな駆け引きが行きつ戻りつ。その結果ついついあきれるほど永く触らぬままになりがちだ。ところが、それでもごく稀になにかアクシデントのごとく、ふっと思い立って読み通してしまったりするのだから、人生とは妙なもの。

それは、谷崎潤一郎の『細雪』。ASIN:4101005125

実際どんなものかと半信半疑で文庫本をめくり始めたのだが、上中下3巻に及ぶその長い話は、あれよあれよ、気がつくとあまりにあっけなく(というか締まりなく!)最終ページを迎えているではないか。

切れ目のない文章。しかしそれは滔々というより、ご飯を弁当箱にぎゅうぎゅう詰めした風に感じられた。出来事とその事情を、飾らず省かず必要にして十分の最適コースで、しかし隅々まで分け隔てなく丁寧に記述していくと、ああなるのかもしれない。説明の用としては新明解国語辞典のごとく行き届いている。ただおかしなことに、小説のむしろ粗筋を手際よく聞かせてもらっている印象にもなる。しかし、もしここに余韻や休符をいちいち思わせぶりに追加し配置していったら、『細雪』はさらに遙かに長くなってしまうのだろう。

きょうだいが2人だと、個人と個人の関係を結ぶ線は1本だけ。3人だと3本。4人姉妹の場合は6本になる。しかも、相手への直接の経路だけでなく、別の1人を、あるいは別の2人を経由することも可能だ。なんとまあ複雑。逆に子供の数が少ないと、関係は固定しがちで切り替えや迂回の余地が少なくなるというわけ。といっても、『細雪』はその6本の線すべてを均等に描いているわけではないが。

細雪』は三人称で書かれ、視点は二女の幸子にだいたい固定されている。それに応じて、心で思ったことがそのまま地の文に出るのも、まず幸子だけだ。‥‥ただなぜか一回だけ視点と内面が幸子の夫貞之助に転じるパートがあり、新鮮だった。対照的に、三女の雪子や四女の妙子は、心の中が少しも明かされない。妙子は派手な事件を次々に起こすのに、それを内心どう思っているのか、結局なんら描かれていなかったと思う。2人については読者はその行動と台詞しか見たり聞いたりできないのだ。それはちょうど幸子と同じ。雪子と妙子の心情や状況は、そういう外部に現れたもののみを手がかりに憶測していくしかない。ふと「行動主義」という用語が浮かんだ。‥‥いや、行動主義とは、刺激と反応だけあればよくて心なんて知らないよという主義なので、ちょっと違うか。

それにしても、雪子は、繰り返される見合いの当事者であり、お姫様役とすら言えるのに、相手の男について雪子自身がどう思っているのか、この小説は不自然なまでに立ち入らない。雪子は元来社交が苦手なので、見合いの最中ほとんど喋らないのは仕方ない。でも、見合いのあと縁談を進めるかどうかという局面ですら、その重大な問いに対する本人の見解は皆無といっていい。だから、雪子という人物はまるで謎そのものじゃないかと言いたくなる。ところが面白いことに、読んで気づいたかぎりだが、小説の文章がいきなりその雪子の心の声になるところがほんの2回だけある。どちらも一人で汽車に乗っている時。ただ、そこで雪子の気持ちの核心が特に述べられるわけでもない。だからかえって雪子はますますヘンに謎めいてくる。これでちょっと思い出したのは、映画『東京物語』の終盤の原節子だ。義母が亡くなった家で義父の笠智衆と2人きりになった段で、自分はそういつも死んだ夫のことばかり考えているわけではありませんと、不自然なほど強調して告げる有名なシーン。この場合はもちろん心の声ではなく生の声であるわけだが、唐突さが似ていて、ちょっとした驚きを運んできたのだ。それにしても、映画においては心の声というのはナレーションにでもしないと直接には表出できないのだなあと、改めて思う。

昭和11年から16年。日中戦争に突入し国家総動員の号令も激しくなっていった時局。しかし、名声を誇った商家に生まれ育ったこの姉妹は、そうした世相とはほぼ無縁で、傍目には非常に優雅で悠長な日々を送っている。豪華にして窮屈な和服の暮らしも伝わってくる。今でいうショップやブランドの名が次々に躊躇なく出てくるのも面白い。女中も使っている。その1人がお春どん。彼女は、銀座で買い物する姉妹の山のような荷物を黙って運んだりもするが、物語の主たる展開に絡むような働きも大いにさせられる。しかしこのお春どんの心もまた、当然かもしれないが述懐されることはないのだ。それを幸子が推測したり顧慮したりすることもない。‥‥ただ、お春どんの性格については姉妹が悪口をいう場面が一回あって、それはなかなか意表をついて面白かった。

そもそもお春どんの心などというものは最初から想定していないのだろうか。あるいはこういう人には近代的な内面なんて実はまだ存在していなかったのか。そんなわけもなかろう。しかしいろいろ考える。だいたい日本の私たちがそろって堂々たる近代人になったのは、いったいいつからなのだ。そして、いっそう恐ろしい疑惑が浮かぶ。そのような偉そうでややこしい近代的自我とかいうようなもの、あるいは近代的生活とでも呼べるものを、現在の日本国民の多くは、なぜか逆に急速に失いつつあるのではないかと。近代人・近代国家なんてほんの瞬きか幻みたいなものかもしれない。歴史は奇跡の輝きをみせたかと思うと、すぐにくるりと踵をかえす。そして振り向きもしない。人間はまたもとの石か芋か砂粒みたいなものになってゴロゴロ‥‥ザラザラ‥‥。

1億人が1億人、中国なら12億人が12億人、そろってちゃんとした人間であるようなことは、なかなか困難なことなのかもしれない。だいたい、早朝から深夜まで労働し、庭とか欄干からの眺望などありえないアパートに閉じこめられ、百円ショップとコンビニでしか買い物しない私たちに、あの4姉妹ほどの複雑な心境や豊穣な関係は生まれようがない、とも言える。ちなみに、『細雪』の人物たちには谷崎にきわめて身近だったモデルが存在するとされる。その住まいを忍ぶこともできる。→ http://isyouan.cool.ne.jp/

ちゃんとした人間(近代人)でありうるのは、総人口に対して常に一定の小さな割合でしかないのではないか。東京の人口は多すぎる。たとえば青山墓地など購入して葬ってもらえる程度の人数しか、本当は養うことができない町なのかも。あの墓地に入れるくらいでないと上流とはみなされないと。じゃあ今生きている上流の東京人の住まいはどのあたりにあるのだろう。え、やっぱり六本木ヒルズ? あそこの人々が近代人の代表?