なんかちょっと読むとか、なんかちょっと言うというのが、日々の基本の欲望になった感がある。
おかしなことに思える。しかし、そもそも、それなりに長いものをそれなりの構えでしっかり読んだり書いたりということが、一般の人々の間に普及したのは、近代以降にすぎなかったようにも思える。むしろ近代以降の人のふるまいのほうが、それ以前からすれば、とてもおかしなことだったとも言える。
つまり、ツイッター的なつぶやきやおしゃべりというのは、近代以前にずっとそうだった日々の基本の欲望に、また戻って落ち着いたということなのかもしれない。
ではそれならば、長い小説や記事や論文を読んだり書いたり、長い議論や学習を続けたりというふるまいよりも、刹那的ツイッター的つぶやきやおしゃべりを繰り返すふるまいのほうが、私たちの心と体には、そもそも似合っているのか?
つまり、ツイッター的つぶやきやおしゃべりこそ、近代人の背伸びした難しいふるまいとは異なり、もっと自然なのか?
そうみることもできるが、そうみないこともできる。「近代以前の人々は動物に近かった」なんてことは、まったくないと私は思う。
人々のつぶやきやおしゃべりは、動物のグルーミングや囀りなどに似た進化、といったことがよく言われ、それ自体は事実だろうけれど、それでも、人々のつぶやきやおしゃべりは、長い小説や記事や論文の読み書きと同じくらい、そもそも動物のあらゆるふるまいと決定的に隔たった現象だろう。
ツイッターを不自然とみるよりも、コロナ紀のSNSを不自然とみるよりも、近代の読み書きを不自然とみるよりも、人間はそもそも不自然とみたほうがよいのであり、要するに人間はそもそも不思議すぎるし面白すぎる、というのが本日も結論。
さて、結論をすぐ覆すことを言うが、トランプはしかし動物だな。
ツイッター社との戦闘。
....These THUGS are dishonoring the memory of George Floyd, and I won’t let that happen. Just spoke to Governor Tim Walz and told him that the Military is with him all the way. Any difficulty and we will assume control but, when the looting starts, the shooting starts. Thank you!
— Donald J. Trump (@realDonaldTrump) 2020年5月29日
ツイッターとトランプのかけひき。この背景には、「SNSのユーザーの発言にSNSの運営者は責任を負わなくていい」という法律があること、それとは別に、最近ツイッター社がユーザーの発言に介入する事例が目立つこと、この2つがある。加えて、トランプ自身のひどい発言、および、ひどい介入。