東京永久観光

【2019 輪廻転生】

宇宙はモノではなくコトである


物質をどんどん細かくしていくと一体どうなるんだろう。重力とか電磁波とかいうけど、けっきょく何がどうやって伝わっているんだろう。大げさでなく「宇宙の究極の姿」だ。それを物理学はあれこれ考えているらしい。ところが、そこで示される「電子がある」や「クォークがある」は、たとえば「机がある」「カップがある」「スープがある」とはどうもカンカクが違っているようで、ずっとモヤモヤしてきた。

竹内薫世界が変わる現代物理学』(asin:4480061932)は、そこをもうズバリ言い切ってしまう。すなわち「モノからコトへ」。物理学では《データの「背後」に何らかの実在があるかどうかを問うのは無意味…》との立場が今や濃厚なのだというのだ。《科学データのほかには数学と論理しかいらない…》と。だからホーキングが「宇宙は始まりは虚数だった」と述べても、それが実在するとかいう話ではないのだと。…なんだそうか、だったらもっと早く言ってくれよ。まあ薄々気づいていたけど。ともあれ、電子もクオークも重力も電磁波も「モノじゃなくてコト」。呪文みたいだが、それでも、頭がパンクしそうになる現代物理のレクチャーで、ただでさえ足りない頭を余計に悩ませることはなくなるかもしれない。新書で簡単な解説ながら、この種の疑問に焦点を当てた本は、他にあまりなかったように思う。

今さら私が講じることではないが、物理学が「モノからコト」へ一気に踏み出したのは、相対性理論および量子力学だ。とりわけ量子の有りようのヘンテコさはそれを象徴している。なにしろ素粒子は、ということは厳密にはあらゆる物質が、「どこにあるのか」はっきりしない。それどころか「あるのかないのか」も実ははっきりしない。そういうことになってしまったのだから。また、「どうあるか」が「どうみるか」によって変化すらしてしまうのだから。

そのへんを一応おさえたうえで、著者は最後に「ループ量子重力理論」という先端理論を持ち出してくる(もちろん私は初耳)。ニュートンは時間や空間を「固定した軸」とみなし、のちにアインシュタインは時空をいわば「柔らかい枠」とみなしたのだが、この「ループ量子重力理論」では、その時空の概念自体がついに完全に消えてしまうというのだ!

「ループ量子重力理論」は、宇宙の究極の姿をただ一個の法則で説明しつくそうとする。そこは「超ひも理論」と同じだ。ただし「超ひも理論」は時空という固い存在をなお想定しているので、こっちはもっと突き抜けた理論と言えるのだろう。

宇宙の究極の姿というなら、我々はこれまで「原子がある」とか「クォークがある」とかの説明を受けてきたわけだ。そこを「超ひも理論」は「ある極小のひもが振動している」といい、その振動のバリエーションによって、この世にある物や力のすべてが出現する、といった説明をしていると思う。それに対応させるなら、「ループ量子重力理論」は「ノードとリンクのネットワーク(点とそれを結んだ線)からすべてが出現する」との説明になるようだ。これだけでは何のことかわからないが、同書はそこを図でやってくれるので、案外イメージしやすい。繰り返すが、ポイントは、時間や空間という実在を想定しなくても宇宙の現象すべてが説明できるという点にある。同書が触れるのはもちろん基礎の基礎にすぎないのだろうが、それでもまたまた「エレガント」という形容をしたくなった。


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というわけで、現代物理学の多くが、宇宙をモノではなくコトとして「説明」しようとしていることは、まあ明白になった。しかし、宇宙の「説明」はコトだが、じゃあ宇宙「そのもの」はモノなのかコトなのか、なんてことをどうしても考えてしまう。本当にモヤモヤしているのはそこなのだから。いや、相対性理論量子力学超ひも理論もループ量子重力理論も、説明としてそうであるだけでなく、宇宙そのものが「コト」なのだとまさに言っているのかもしれない(そこが私はまだうまく理解できない)。

これについて、竹内氏は「あとがき」でこんなことを書いているので、見逃せない。

《…本当は、モノの属性としてわれわれが理解している「堅い」とか「四角い」などという形容詞は、モノ自体がもっているものではなく、単に量子論的なコトから始まる長い連鎖の集合を一まとめにして「コンクリート」とか「鉄筋」などという名前をつけて、それを見たり触ったりした人間の脳が「堅い」とか「四角い」などと感じるだけのことです。/物理学の最先端で起きている革命は、宇宙から次々とモノが消えてコトになってゆく過程としてとらえることも可能ですが、見方を変えて、そもそもモノとコトの境界などなかったのだ、と解釈することも可能でしょう。》

ほらやっぱり「この世の究極はモノというよりコトなのだ」ととらえたほうがいいかもしれないのだ。なんというか、そうじゃないとかえっておかしいのだ(としか今は言えないが)。

ではそういうことを、物理学の先端理論ではなく日常においてぼんやりとでも直観するのは、どういうときか。たとえば、生まれつき目の見えない人はこの場をどう把握しているのだろう、それは目が見える私の把握とどう異なっているのだろう、と想像してみるようなときではないか。この想像の手順はきっと有効なんじゃないかと最近思っている。さらには、コウモリは周囲の環境をどう把握しているのか。猫や犬はどうか、アメーバはどうか、アイボはどうか。…と前に脳と心の関係を考えたことと繋がってきてしまうのだった。

それとおそらく関連すると思うのだが、著者は同じく「おわりに」で、脳の問題に言及する。きわめて興味深かったのは、マウスの迷路実験の話。《マウスは、一つおきに左に曲がると餌に辿り着けるような迷路は学習することができるのに、一番目、三番目、五番目、七番目、十一番目……という具合に「素数番目」の交差点だけを左に曲がるような迷路は学習することができない》というのだ。なぜできないのか。《マウスの脳は、素数という概念が理解できないからです》! そしてこう述べる。《人間の脳が宇宙のからくりを完全に理解できる、と信じている楽観的な科学者や哲学者もいるでしょうが、残念ながら、私には、(素数がマウスの知性の限界を示しているのと同様の意味で)人類の知性に限界があると考えるほうが自然なように思われてなりません》。こうも言う。《…なぜ、宇宙がコト的な構造になっているのか、その根源的な理由を知る者はいません。仮に知る者がいたとしても、おそらく、現在の人間の脳の情報解析能力では、その「からくり」を理解することはできないでしょう》。

ここで言っているのは、宇宙像は当然ながら生物や人間としての身体や認知のモノ的な特性に依存していること、そして、そうした身体や認知の限界を超えて宇宙をコト的に把握することは本当は無理なのだ、ということだろう。いやあ、なんだかもうどんどん話が深くなる。「ようし、じゃきょうはこれくらいにしといてやろう」(自分に)。


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量子力学イデオロギー』の著者佐藤文隆が、一般向けの講演と質疑をまとめた『宇宙の創造と時間』という本を出している。物理学の位置づけについて、『世界が変わる現代物理学』と同じくらい明快なぶっちゃけをしているので、とてもありがたい。「宇宙はモノなのかコトなのか」という視点も自ずと浮かんでくる書だと言っていい。《時間と空間があって、そこに物質があってというとらえ方は、人間の五感とは無関係で、普遍的なものにみえますが、多分五感にもとづいた、人間の情報処理の構造に特有な概念なんだろうと思いますね。》などなど。この本についてはまた紹介したい。ASIN:4484952149


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この手のことについては、過去にもいろいろ考えた。
あやふやな理解があって信用すべきではないが、参考までに。
http://www.mayQ.net/jitsuzai.html
http://www.mayQ.net/elegant.html