リリカさんの日記が消えて、思い出したのは、やはりチューリングテストだ。
(参考 http://www.ai-gakkai.or.jp/jsai/whatsai/AItopics3.html)
もちろん「彼女は人工知能だったのか?」などと思うわけはない。
それでも、「高校生で女性で単一の人物」として実在するのかという点は、
疑いだせばキリがなくて、読んでいるだけでは判らないということ。
ポイントは、「実在しないことの証明は難しい」という点なのだろう。
逆に、実在することの証明なら、会うとか電話するとかでほぼ100%可能だ。
いや本当は、チューリングテストが示唆する極北というのは、
「直接会っている人間すら、
一個の人格としてみることが疑わしくなってしまう」、
そんな境地にあるのだと思う。
とはいえ、それはかなり飛躍した遊戯(あるいは苦悩)であって、
通常そこまでは疑わない。
だから我々の実社会は「まあ順調」と言っていい。
でも再び逆に、ブログや掲示板やメールという、
実社会とは異なった読み書きやつきあいに慣れていくなかで、
そうしたSF的に変容した意識が、
けっこうしっかり備わってしまっていることも事実だと思う。
それは厄介といえば厄介だし、面白いといえば面白い。
こうして目の前のマシンでメッセージを打ち、
インターネットという中央制御機構に送り込むと、
やがてどこからか、メッセージが返って来たり来なかったりする。
こういうコミュニケーションをしながら、私はずっと、
チューリングテストを受けている最中のような気持ちにもなっている。
ブログの交信においては、
そうした「人工知能との接続気分」を完全には排除できないのではないか。
2ちゃんねるなど匿名性が高いところでは、ますますそうなるのだろう。
リリカさんに関する噂も、おそらく、
実際に会っては言わないことも、まるでテストのつもりで、
つい口にしてしまう(…ことは原理的に出来ないので、文字にしてしまう)。
なんというか、
人工知能と遊んでいる、いじめてみる、ようなところもあったのではないか。
そういうときは、信じるより疑ってみるほうがよほど面白いのだ。
とはいえ、
モニターに映じさせた匿名の文字列にすぎないもの(ブログ)であっても、
それがおとしめられると、なぜか自分の身体のように「痛い」。
それが錯覚とも言い切れないことも、我々はもうよく知っている。
私は『リリカの仮綴じ〆』を恐るべき関心を持って読んでいたし、
ここでもたまに紹介した。(ちょっと皮肉交じりだったこともあって心苦しい)
また元気に出現してください!
(…とこういうことを書くと、実社会の誰かに送信しているのか、
コンピュータに送信しているのか、もうわからなくなるのだが、
仮に人工知能的なセンチメンタルだからといって、
それが実在の思いでないということにはならないだろう)
ともあれこの一件は、私としてはインターネットの歴史に残る出来事だった。
はてなでの言及リストもある。→ http://d.hatena.ne.jp/hotsuma/20040921#p2
このほか、イラク人質事件の自作自演説とつなげた考察も興味深い。
→ http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20041007#p1
*
チューリングの論文そのものについては、こちらが詳しいと思われる。
→ http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myNote/reconsidering_turing_test2.html
ちなみに、論文では、
人間が性別の違うふりをする、その人間のふりを機械はできるのか、
という思考実験だったらしい。