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【2019 輪廻転生】

ロシア大使狙撃〜気狂いピエロ〜批評


トルコのロシア大使狙撃の映像をみて、『気狂いピエロ』で男が室内で殺される最初のほうのシーンを思い出した。白い壁とふいにそしてあっさり人が死ぬ点が共通しているのか。後半にも似たシーンがあった。それにしても、この事件は空前の衝撃だが、『気狂いピエロ』も空前の衝撃だった。(映画は殺されるシーンではなく、殺されたあとのシーンだった)

そして29日、『気狂いピエロ』をDVDで。上記の唐突さをきっかけに、唐突にみた。そして思った。ゴダール監督は映画を作ったのはまちがいないが、同じくまちがいなく「批評」をしたのだなということ。「物語」をしたのではなく。

「映画ではなく批評をした」と書かないのは、やっぱりどこか映画というジャンルや行為自体への敬意が私にはあるのだろう。

というか昨日、出先のテレビに『第三の男』が映っていた(NHKか) ちょうど観覧車の前に主人公が立つシーン。それだけでもう圧倒された。『第三の男』が有名だからとは別に、やっぱり観覧車が大きく映る、それをまじまじ見ること自体、なにか凄いことなのだろう。つまりそれ自体が批評。

いやよくわからなくて書いている。ただ、小説作品にしろ映画作品にしろ、「物語」ととらえて感想を言うのと同じくらい、「批評」ととらえて感想を言おう。それが正しいかどうかはわからないが、きっと間違いではない。小説や映画だけでなく、それが事件であれ、選挙であれ、戦争であれ、だ。

それはそれとしても、今年の重大ニュースを挙げるなら、1つは断然『ゲンロン』だし「批評の活性化」だ。

映画の誕生とは要するに批評だったのかもしれない。そして映画がだんだん批評ではなくなったときに、ゴダールたちの登場がまた批評だった。そしてまた…(これが今なお少しは繰り返されている)。

――と、ここまで地ならしをし、批評という言葉をやすやすと使ってしまうと、批評という言い方はとても便利になる。そして、「トランプ勝利はアメリカにおける批評だ」とか「首斬りはイスラムにおける批評だ」とか、つい適当に当てはめてしまう。それにより理解は混乱もするが整理もできる。

そういえば「9.11」が起こったとき、「世界の秩序を大揺れにさせてこの作品に対し、世界最大級の見識をもった批評を!」と思った。(以下のリンク先)

http://www.mayq.net/junky0107.html#010912

あれから10年たって、日本は津波原発事故に襲われ、さらに5年以上もたった。しかし、「3.11」への私たちの対応全体に、どこか浮き足立つ感じや、気がそぞろになる感じが、ずっと抜けないのは、物語ばかりの「3.11」に徐々に望みを失い、「3.11」の批評を希求しているのだろう。


しかしまあ、とにかく目まぐるしく動いてばかりの映画の1作だ。そして、目まぐるしく動いてばかりのテロの1年だった。…それはそうと、『気狂いピエロ』のラスト、爆死して海が映るところは、『HANA−BI』(北野武)が受け継いだのかも。全体の雰囲気は『ソナチネ』に受け継がれたか。


気狂いピエロジャン=リュック・ゴダール
 気狂いピエロ [DVD]


★ゲンロン
 ゲンロン4 現代日本の批評III