『存在とは何か』(小林康夫)を読んでいる。哲学の人として知られる著者だが、存在の謎に迫る新しいカギを、思いがけず、物理学の理論に見出そうとしている。<よくわからないけど、どうしてもそんな気がするんです>と、まるで私に似た軽薄さや気弱さも垣間見えるので、100%共感!
《そこには、われわれのこの世界についてのまったく新しい「存在論」がある》《おもしろいのは、実在世界の限界を数式化する量子力学において、まさに「実在」の存在論が問われたということ》《厳密に数理的な論理を追求していった挙句に実在世界の限界に触れてしまったという感が強い》などなど。
さらに踏み込んでシュレディンガーとハイデガーを軽業的に結びつける。
《「粒子」とはまさに「存在者」であり、そうであれば、「波」こそが「存在」ではないか。つまり、「存在」とは「存在確率」の「波」にほかならないのではないか》
私が言うと頭がおかしいとしか思われないが、『知の技法』の小林康夫さんが言うのだからまじめに耳を傾けよう。ただ、そういえば『知の欺瞞』というのもあったなあと、ふと心配にもなる。しかしそこは著者自身がわきまえているので大丈夫(次のとおり)
《「ソーカル事件」というのがあって、自然科学のさまざまな概念を、数理言語に通じていない哲学者たちが間違って使うことに対して、それ自体が詐術的でもある仕方で警告が発せられたりもした》
しかし《わたし自身は、――自分の無能力は棚上げにしてーー自然科学がもたらした世界の存在のあり方から、我々人間の実存にとって意味のあるものを、少しでも学びたい》
《哲学は、いまや科学的知として拡大・膨張・拡散していると言うべきなのかもしれない》
《思い出しておかなければならないのは(略)デカルトもライプニッツも最先端の行動な数学を展開して「自然」を論じていたということ。自然学は哲学の一部であったということ》
現代物理学のアクロバットの難しさ・奇妙さ・驚きには果てしないものがある。しかし考えてみると、それに比肩するものがあるとしたら、まさに現代思想のそれではないか。哲学と科学がもともと1つの強烈な関心と探究に端を発しているのであれば、この類似は不思議ではない。
この本を読んだのは、たまたま、ある哲学者とある科学者が遭遇している最中(以下)だったので、とりわけ感慨深かった。