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【2019 輪廻転生】

★数学者の哲学・哲学者の数学/砂田利一、長岡亮介、野家啓一

 数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索


数学者である砂田利一は次のように述懐する。

砂田 物理的世界でも、望遠鏡や顕微鏡、さらにはX線解析のような補助的デバイスを用いれば、直接見えないものでも見えると思えるようになる。これと同じで、数学的手段で、例えば体積を持たないような複雑な図形が見えるように思えるのです。

砂田 円周率の計算がいかに長くても、また計算が終わろうが終わるまいが、小数展開は「存在している」と考えると言いました。このような立場は確かに素朴プラトニストです。

砂田 モデルで説明できたんだから、それには意味があると考えるのです。実在って言葉自身が哲学用語だから、数学者がそれを実在と呼んでいいのか分かりませんが、モデルで説明できれば、もうすべていいのではないかと思ってしまう。やっぱり実在と呼ぶべきじゃないかもしれないですが…


野家 そのような考えは、数学者はリアルに感じているのですか。


砂田 感じています。それは、ものすごくリアルです。頭の中にも、これは絶対的に何かそういう物があります。その説明には特殊相対論やガリレオの相対性原理でも十分です。さらに一般相対論モデルは、ローレンツ時空、ローレンツ多様態と呼ばれる物です。それらで全部説明できてしまう。説明できた以上、それは数学者にとっては、ものすごく実体感のある物になってしまうわけです。繰り返しますが、ただ実体っていう意味は、やっぱり哲学者が言う実在とは、意味が違うのかもしれない。それはもうプラトン的な素朴な実在という感じなのかもしれませんが。

少なくとも砂田にとって「数学は実在する」という実感が強く、それをもって「あなたはプラトニストだ」と言われても「はいそうです」という気持ちのようだ。

しかしそうはいっても、「数学は実在する」という実感と、うちの猫や、今すわっている椅子や、夜みえる月が「実在する」という実感とは、また別のことだろうとは、だれしも思う。

こうした問いをめぐって、哲学者の立場である野家は、たとえば次のように言う。

野家 現代のプラトニストとも言われるフレーゲなんかは、一方に「物の世界」を、他方に「心の世界」を置き、両者から独立に第三領域という「思考の世界」があるというふうに考えています。(略)純粋な理論的世界みたいな、そういうものです。それがまさに数学的な対象が住まっている領域だというふうに考えているのです。

かなり納得のいく整理だと思うし、フレーゲやっぱりすごいねと思うが、砂田はあんまり同意しない。


さて、いずれにしても、こうした問い、私はいつも頭をひねるだけで、そして首をかしげるだけでフェードアウトしてしまうし、今回も同じようなものだ。


それでも今回この本で1つだけ「そうか!」と初めて気づいたことがある。

長岡 私が言いたいのは、物理の人も数学の人も、現実の現象といいますが、その際、現実っていうのを気楽に語り過ぎてると思うんですね。


砂田 ! 


野家 長岡さんが言ってるのは、現実と実在というのは区別されるべきで、現実というのはいろんな空気抵抗とかすべてのファクターを含んだ、ある混沌としたものだということでしょうか。そしてそれをモデル化したものが実在(レアリテ)でこっちの方は理想化された現実だということですよね。そうすると、そこからはあくまで実在というのは理想化されたものだから、言い方が難しいけども、現に在る現実そのものと混同してはいけない、ということでしょうか。


砂田 わかりました。やっぱりプラトン的な理解というわけね。

つまり、われわれが「実在」と呼ぶもの・呼ぶことそれ自体が、ひとつの観念でありイデアであり、いわばモデルにすぎないのであって、そもそもの在りよう自体ではないのだ、ということだ。

ここから考えるに――。数学によって展開される世界すなわち数学はイデアなのであり、実在もまたイデアなのだから、「数学は実在だ」と言ってまったく無理はない。いやむしろ、イデアそのものである「数学」が、イデアそのものとして「実在」していないわけがない。――そんな気がしてきた。

なお、ふだん私は、数学というような広いまとまりでなく、もっと単純な、数というもの(つまり1,2,3,…などと数える数)について、それは実在なのかと、考える。

そして、自然数なんてもうこれ以上単純な要素には分解できそうにないのだから、いわば原子や分子が一応実在するように、自然数もまた人間が作ったのでも見つけたのでもなく「もともと実在していたのだ」と言いたくなってしまう。

しかし、上で気づかされたことを踏まえると、「自然数はもともと実在しているにちがいない」と感じるからといって、実在という枠組み自体が人間的なのだから、自然数が人間の枠組みを超えているという証拠にはぜんぜんならないね、ということになる。


……いずれにしても、依然としてよくわからない。

それにしても、数学がどうのこうの、かつ、哲学がどうのこうのと、これほど世間の興味を誘わない話題はないなと思う。興味を誘われる私はかなり奇人変人なのだが、それでいて、その興味について、これほどまでに自分で説明ができないのだから、もうどうしようもない。


 *


以下は自分用にメモ。

砂田 私は「構成可能」「構成不能」の代わりに「人間業」「御神託」といういいかたをしています。例えば自然数の集合Nの部分集合Sを考えた時。与えられた自然数がSに属すかどうかを判定するアルゴリズムがあれば、Sは「人間業」で与えられたことになり、そうでない場合はSは「御神託」で定義されたとするのです。ここでアルゴリズムとは、計算機のプログラムと同義語と考えてください。(略)そして、御神託が必要なSの存在は、計算機理論を開拓したチューリングが証明した定理から導かれます。(*チューリングマシンの停止問題)

長岡 今、数学者はそういう超限的なものを所与のものとして特に不安なく受け容れるとおっしゃいました。(*それは信仰か、真理か、と問うと…)


砂田 真理でもないし、だからといって信仰でもないと思います。

砂田 超限的なものを理解し論ずることができるというのはそもそも人間の脳の機能であるし、他方で構成的に考えたいという欲求も人間本来の性質であって、それらが両立すると考えるのは信仰とは違うと思うのですが。

砂田 全然神秘ではないですよね、われわれが考える実数全体というものは。

砂田 自然数から整数を作り、整数から有理数を作り、有理数から実数を造るという、その理論的なプロセスを見ると、非常に自然に作り上げられていくわけですね。(略)われわれはそれを何か人工物だからあるいは、何か超限的なものだからといって、捨て去るにはあまりにも自然だと考えてしまう。ただし長岡さんが言われるとおり、実数全体を見渡すことなんか人間にはできない。実際には自然数だって全部見渡すことはできません。これがまさに超限的ということですが、その中でちゃんと意味のある、具体的に構成できる自然数の部分集合を考えるのは、また 別の意味がある。だけどやっぱり実体として、もうすでに自然数は限りがないプロセスとしての無限である可能態の無限ではなくて実在としての実無限としてあると考えるほうが自然だと思う。

砂田 今、野家さんから、クロネッカーの「自然数は神が与えた」という話が出てきました。私にとっては自然数でさえ人間が作ったものだと思えます。(略) …ホワイトヘッドが言っていました。一週間の日数と魚が七匹いることを、同じようなものだ、類似のものだと最初に思った人間は、人間の精神に大変な飛躍をもたらしたと。(略)それはやっぱり神が作ったものじゃなくて、人間の脳が作ったものだという気がします。

砂田は「自然数は実在する(神秘ではない)」そして「自然数は人工物である」という2つの立場がともに鮮明なのだと思う。

野家 (原子分子はわれわれより前からあったが、あるときわれわれが原子分子という概念を獲得して、この宇宙の構造を理解するようになったように)それからすると、さっきの自然数の場合、(略)それはすでにあった自然数を「発見」したのか、それともその時にその天才原始数学者が「発明」したのか。つまり集合の集合という二階の概念を発明したのか。そういう点になると、少し自然数の「存在」を人間が作ったということに紛れが出てくるのではないかと、哲学では考えるのです。ここで哲学的立場は二つに分かれます。「個物」にのみ存在を認めるアリストテレス的立場と、「普遍」の存在をも認めるプラトン的立場です。自然数の実在を承認することは「集合の集合」という普遍の存在を認めることですので、いわばプラとニズムにコミットしていることになります。

長岡 結局、「あるものが似ていると思い、あるものは別のものであると思う」という私たちがもっている特別の認識作用とでもいうのでしょうか? これはイヌえこれはネコでこれはイヌでもネコでもないというふうな個体の分類は、あらゆるものを部分に分けて、その緒部分の間の関係をとらえるというかなり難しい判断です。このわれわれ独自の認識能力が数の概念と基本的に関わっている、ということですね。


砂田 そのことに全く異議はありません。(略)やっぱり人間の認識、たとえば自然数を作った、きっと正確には、人間の存在とは独立に存在している自然数を考えることができたというのは、それは事実ですね。

長岡 素朴存在論と素朴唯物論を打ち破るのに、数学ほど良いものはないって思う。

長岡 心ってどこにあるのって言われたら、何か言えませんから、物質に還元したくなりますよね。でも、どんなに頑張っても、素朴唯物論や素朴経験論が、絶対接近できないのは、やっぱり数学的認識の世界だと思うんですね。

長岡 それを数学者は、素朴プラトニストとか言って、笑ってるだけじゃなくて、そこに世界があるんだから、それを見ないで何を見てるのかといってやるべきでは?


なお、第3章以後は未読。

 
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[参照リンク]
 ▼数や集合や関数は、どんなふうに「存在」するのか
  http://math.artet.net/?eid=1403599