実はこの正月、身近な人の死に遭遇した。笑ったり話したりしていた人が今日はもうまったく動かない。その姿をはっきり目にして考えがめぐったのは「人生とは何だろう」「家族とは何だろう」ということだった。それをしみじみ思う貴重な機会だった。
こうしたとき「死んだら本当に終りなのか」「神は本当にいないのか」と腰を据えて問う機会にも思える。しかしそれは実際にはあまりしない。まさに死に際しているにも関わらず、生の根幹や総論を考えることはしても、死について考えることはなぜかしないのだ。
どうしてだろう。その問いの答えが結局どうしたってわからないからか…
では、なぜ死はわからないのか。
おそらく死には内容がないからだろう。そんなことを今さら確信する。生には内容がある。しかし死は痕跡だ。なにかが消えた跡、終わった跡にすぎない。時間の流れも空間の広がりもない。どうしたって「死は無」なのだろう。それを忘れているから、ついうっかり死について考えてしまう。死の内容という幻を追ってしまう。しかし幻の問いに実のある答えは出るはずがない。
「死んだら終りみたいだけど、本当か?」
「神はいないみたいだけど、本当か?」
「君も私もその人も偶然生まれて偶然死んでいくだけというのは、本当か?」
――本当なんだろう。諦めるしかない。諦めないほうがどうかしているのだろう。
それでも、と思う。死が無であるとしても、なお疑問は残る。この宇宙にはこの宇宙以外なにも存在せず、この宇宙からこの宇宙を引いたらゼロでしかなく、超越的な神のようなものは決して残らない――のだとしても、なお問いは残る。
すなわち「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問い。
言い換えれば「宇宙全体が無でないのはなぜか」「宇宙全体が無であることはありえないのか」といったような問い。
これこそ「内容のない問い」である可能性は感じている。しかしやっぱり私の宿題はここに戻ってくる。
今年もよろしくお願いします!