「左翼的な過激団体と共産党の関係」(茂木発言)についてだけど――
日本共産党が1955年の六全協で武装闘争を放棄したことは周知の歴史であり、以後いわゆる新左翼・過激派とはいわば宿敵同士になるはず。武装闘争放棄の前と後のどちらの日本共産党を真に評価するかは、人それぞれだと思うが。
それはさておき、柴田翔の芥川賞小説「されど われらが日々――」は、この六全協をめぐる共産主義青年たちの苦悩が描かれているとされている。たまたま私はついこのあいだ読んだ(それでこのニュースにもへえと思うところがあった)
新装版 されどわれらが日々 (文春文庫) | 柴田 翔 |本 | 通販 | Amazon
《しかし、革命は起きませんでした》《革命をおそれる党員。それはなんと滑稽な存在でしょう。ぼくは所詮、裏切り者でしかないのです》…なんてことが確かに書いてある。
しかし実は、彼らは共産主義や革命より人生や恋愛について実にストレートに悩んでいる。ストレートに実践もしている(性についても)。リア充だと言いたい。とはいえ悩んで自殺する者も複数いる。今の時代からすれば真面目としか言いようがない。ただ私はなんとなくそんなところに惹かれた。
要するに青春小説の代表作なのだろう。
ところで私が柴田翔の別の小説「贈る言葉」を大学の授業で読んだのも前世紀の青春時代だ。そのとき読んだのがこの「されど われらが日々――」だったとずっと思い込んでいて、久しぶりに読み返して「あれなんか違う」という青春の過ちにもやっと気づいた次第。
何が言いたいかというと―― かつて確実に青春であった者しかも今は確実に青春ではなくなった者にとって、さて青春とはいったい何だろう、そして、青春小説を読むとはいかなることなのだろう、ということです。