東京永久観光

【2019 輪廻転生】

手製ローテクの過激


映画『太陽を盗んだ男長谷川和彦監督・1979年

うつろな日々を送る一人の高校教師(沢田研二)が、東海村に侵入してプルトニウムを盗み出し、自宅のアパートで原子爆弾を手作りしてしまう。どうやら日本国を相手に闘争したいらしい。ところが強迫はしたものの要求が思いつかない。やがてあるラジオ番組に接触し、原子爆弾があったら何をしたいかの案をリスナーから募ることになる。この低テクノロジーの闘争が低テクノロジーの革命を予感させ、冗談と知りつつ、いや冗談ぽいからこそ、心はいっそう踊り騒ぐ。

国家への要求を欠くだけでなく、そもそも教師が原爆を作ろうと思い立った動機も語られていない。ひたすら「空虚」に包まれている。それと裏腹に劇場性は前面に出る。「テレビ野球中継の途中終了をやめさせろ」と口走り、ついにはラジオ番組から拾い上げた「ローリング・ストーンズ日本公演」の要求を突きつける。おまけに渋谷東急百貨店の屋上からは5億円の札びらをばらまかせる。これらは、映画の序盤で教師が遭遇するバスジャック事件と極めて対照的だ。こちらの年老いた犯人は、先の戦争に落とし前をつけるべく「陛下に会いたい」と要求するのだから。あるいは『新幹線大爆破』(75年)という別のテロ映画を持ちだすなら、山本圭の扮した犯人は新左翼の生き残りで、逃走に成功したらと問われ「革命が成功した国に行ってみたい」(引用不正確)と遠い目をしていたが、それとも異なっている。となると、『太陽を盗んだ男』の空虚さゆえに過激な面白半分は、経済成長がいつしか高度消費へとカーブしてきた直後の気分と言えるのだろう。

しかしこの気分は、今の今に至るまで結局ずっと延長されてきたのではないか。戦後が長いのみならず、四半世紀も続いてきたとおぼしき高度消費時代がもう本当に長いのだ。ということは、もし今『太陽を盗んだ男』のような物語を示されたら、同じように共感できる一方、さすがに既視感に満ちていて「もういい、恥ずかしいよ」と受け流すことになりそうだ。映画に出てくるラジオ番組も「ダメなあなたとダメなあたしの共犯放送」(引用不正確)という女性DJの呼びかけで始まるのだが、こうしたフレーズのセンスもとっくに疲弊していて、今ではとても使えない。空虚さもさすがに飽きた我が日本。空虚さが変わったのではない、空虚さが変わらず長いがゆえのいっそうの空虚さが、現在だ。

それともこれは私だけが感じる歴史観だろうか。69年にはまだ子供で89年にはもう大人で、でも79年には間違いなく若かった者として。国家にも警察にも原発にも資本にも天皇にも曖昧なままの反感が抜けず、逆にゲリラや反権力といった記号には闇雲に注目したくなる――ずっと温存されてきたこうした気分は、『太陽を盗んだ男』や79年あたりに原点があったとも考えられる。

しかしこれには懐古による偏向もある。日本では地下鉄サリンというかなり奇抜なテロが実際起こったわけだし、先日はイラクのゲリラが私のその気分の中にまで忍び込んできた。いつまでも79年ではないのだ。だいたい『太陽を盗んだ男』の手製原子爆弾は、かつての秋葉原電気街に並んでいたような計器だけで作動した。コンピュータのハイテクなど影も形もない。教師は強迫のために公衆電話を使い、警察はそれを大仕掛けの逆探知で迎え撃つが、この抗争も携帯電話の現代ではまったく様変わりするはずだ。それどころか、通信記録の捕捉など警察はもう朝飯前かもしれないし、いつのまにか張りめぐらされた監視カメラが、そもそもこうしたアクションを徹底して不可能にしているのではあるまいか。

やはり時代は変わっている。もちろん79年の段階でも、権力に勝とうなどともう誰も本気では考えなかった。それでも権力は苦々しい存在ではあった。その後もずっとそう感じられた。では04年の日本はどうか。もはや、それらが苦々しい異物だという実感すら、あるいはそれには勝てないことの空虚さすら、人によっては消えつつある。『太陽を盗んだ男』の空虚な過激さ。それは、先の大戦や60年代の政治闘争を生きた人には理解されなかったかもしれない。しかしまったく別の意味で、整然と秩序だった実利闘争ばかりが熾烈な現代日本でも、この気分を受け入れる余地は一気に失われつつある。そのように見える。

 *

話は変わる。

この映画には、ハイジャックされたバスが皇居の奥に本当に突入していくカットがある。妊婦に女装した沢田研二が一人きりで国会議事堂の門をくぐるカットもある。これらはまさにゲリラ的に撮影が敢行されたと聞く。こうした逸話が長谷川和彦のヒーロー伝説をますますもりたてるのだろう。しかしこうした無茶は、映画製作の物理的な困難をただ反映しているだけとも言える。許可など取れるわけがないし、金も人手もないし面倒くさいし、といった事情が一般的には考えられる。

また、この映画は後半になってだれるという批判がある。たしかに、教師役の沢田研二と警官役の菅原文太が一騎打ちするシーンなど、そうかもしれない。沢田「お前もただの権力の犬だったんだな」(引用不正確)とか、菅原「爆弾でお前が殺したいのはお前自身さ」(同)といった陳腐な台詞のやりとりも、漫然と間を持たせただけにも見える。しかも菅原文太は撃たれても死なず、沢田研二はビルから落ちても助かるのだが、もうその場しのぎの破れかぶれに見える。このほか、捜査本部のビルにターザンの真似をした教師がガラスを破って突入し爆弾を奪い返すというやり方も、まるで「ルパン三世」みたいで面白いが、アイディアや展開の行きづまりを打破する苦肉の策だったという指摘もある。

とはいえ、映画というのは限られた数の人間が限られた装置と期間で手作りするものに他ならず、これらの断行はそのことを図らずも映し出している、と見てもいいだろう。撮影場所を選ぶにも、役を演じるにも、カメラを構えるにも、生身の人間が生の現場でやるしかない。とくにロケでは、そこにある現実・現物がどうしたって入り込む。そこに制約があれば、その制約がそのまま映り込む。映画とは、そうした物理的あるいは時代的な制約、言い換えれば、限定された生の人間や生の時代が反映される創作物だとも言えるだろう。ローリング・ストーンズを来日させる要求は結局実現されないが、それは教師や警察にできなかっただけでなく、長谷川監督自身だってそのようなシーンを作ることはやっぱり不可能だっただろう。

これが小説の文章であれば、どんな設定もどんな行為も思いのまま実現させることが原則としては可能だ。もしも、小説という創作を規定し制約し、その結果その創作のなかに自らを映し込むものがあるとしたら、それは言語そのものだろう。小説の本質が言語であるように、映画にとっては、時代的で物理的な風景とか身体とか物体こそが本質なのかもしれない。この特有さがまた映画の面白さかな、とも思った。

 *

太陽を盗んだ男』は公開時に映画館で観たはずだが、内容も存在もかなり忘れ果てており、今回たまたまビデオで観て、あまりの刺激にまじまじと見入ってしまった。現在はDVDが出ている。なお、先日「はてなダイアラー映画百選」で『田園に死す』について書いたが、今だったら『太陽を盗んだ男』を選んだかも。

ASIN:B00005NDHJ