現代のSNSやテレビでは多彩な論客たちがそのつど大衆を引きつけているが、これは古代ギリシャのソフィストをめぐる事情になぞらえられるかも――と思った。
アテネの公的世界とは、《言葉を巧みに操ってポリスに自らの意見を認めさせて高い評判を勝ち取る政治家(弁論家)・詩人》と《自分自身は説得の言葉を生み出さないが、政治家や詩人の意見を聞いて判定する大多数の人々》の二重構造だった。
言い換えれば《文化の担い手という「知者」が大衆に教えを垂れるという一対多の人間関係が支配する世界だった》
そこに割って入ったのがソクラテス。彼だけは年齢性別出身貧富を問わず「一人一人」と対話を繰り広げたという。
ソクラテスの対話の場は、興味深いことに、政治的な公的空間でも経済的な私的空間でもなかった。すなわち「セミパブリック」(半公共)の広場だった。
そしてこの章の著者(栗原裕次)は、ソクラテスの対話空間を、「哲学カフェ」という現代の模索に見出そうとしている点が、さらに面白い。
《哲学カフェでは、参加資格を問わず、人生や世界の大切なことをめぐって、自由と平等そして一番に楽しむことをルールに会話を交わす》
《異なる意見の尊重、多様性の尊重は当然だとしても、哲学の可能性を信じる限り、決して相対主義に陥ることはない》
《哲学カフェは、ソフィスト流の「万物の尺度は人間」や「力こそ正義」といった発想から最も遠く隔たった集まりと言える》
◎『世界哲学史1』(ちくま新書)
https://www.chikumashobo.co.jp/special/world_philosophy/
なおこの巻では、同時期に現れたインドや中国などの古代思想が「世界の哲学」たりうるのか、ギリシャとの類比を絡めて検討される。そこが焦点。
→ https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2022/08/11/000000 に続く
※カテゴリー「哲学」を新たに作成。今までなかったのがへん。