東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★21世紀の貨幣論/フェリックス マーティン


 21世紀の貨幣論
  ――ピケティ本ではない(念のため)


熟読完読。

お金とは何かという興味は、言葉とは何かという興味に似ている。身近なのに謎めいている。射程がきわめて広く、考え始めると妄想と興奮が尽きない。

ここ10年ほど、日本や世界の動向に絡んで経済学への関心が自分のなかで大きな渦を巻いてきた。それを学んでこなかった後悔とともに。

「景気って?」「インフレ・デフレって?」「マクロ経済って? =個人の財布と国の財布は仕組みが異なるの?」さらには「金融って? 」といった謎がその中心だ。これがわからないとどうしようもないだろうに、じつはわかっていなくて、いつももどかしい。

そしてこの本は、経済学の教科書というような本ではまったくないけれど、ともあれそうした興味を間違いなく射抜いてくれた。私としては、経済学の理解がようやく一歩だけ確かに進んだ感がある。ことし上半期の読書では最大の収穫か。

お金をめぐる日ごろのふるまいや気持ちは、ごく当たり前に思えるが、じつは長い歴史のうちに完備された市場、貨幣、銀行、金融といった巧妙な仕組みに慣れているからこそなのだろう。この本を読んでまずそのことを思い知らされた。「お金とは何か」を探るのが面白いのも、そうした新鮮な発見が次々にもたらされるからだろう。(インターネットが当たり前の私たちの生活もまた、短い歴史のうちに完備された様々な仕組みに慣れているからこそだが、それと同じこと)


=以下、読書メモ=
記述内容を略したり変えたりしつつ書き留めた。正確な引用の場合は《 》。「*」は私が書いた。


<第1章 マネーとは何か>

純粋で単純な物々交換が行われていた歴史は存在しない。

マネーはモノか? ヤップ島の石の貨幣(フェイ)について考えよう。フェイは「他のどんな商品とも交換できる商品」という意味での交換の手段ではないことは明らか。では何なのか?

ヤップ島のマネーはフェイではなく、その根底にある、債権と債務を管理しやすくするための信用取引清算システムだったのだ。フェイは信用取引の帳簿をつけるための代用貨幣(トークン)にすぎなかった

言い換えれば、硬貨や通貨は、その根底に在る信用取引を記録して、信用取引から発生する債権と債務を清算するのに便利な代用貨幣なのである

*こうした説明を著者はマネー全般に当てはめる。マネーの本質や貨幣の役割とはすべてこれなのだと。ところが、現在の標準的な貨幣観はそれとは異なっており、間違った貨幣観であるということを、同書は一貫して主張していく。

《それにもかかわらず、商品をマネーとし、貨幣交換を交換の手段を用いて財やサービスを交換し合うことだとする標準的な貨幣観は、何世紀もの間、理論家や哲学者からいちばん支持されている。こうした立場が経済思想を支配しており、経済政策の方向性を決めることも多い》

*そして、間違った貨幣観がなぜ根強く続いてきたかを経済史とともに解き明かしていくことが、この本のメインテーマといえる。

マネーの核心は3つある。「信用」「会計のシステム」「譲渡すること(*流動性と言い換えてもいいだろう)」

ファインマンはこう言った。電磁気力という目に見えない力こそが、目によく見えている力の源泉なのだ。マネーもまったく同じ。手に触れられる硬貨がマネーであるとつい考えがち。債権と債務などという手品のような実体の無い装置は硬貨があってこそ作られているのだと誤解しがちだが、現実はその真逆である。《譲渡可能な信用という社会的な技術こそが、基本的な力であり、マネーの原始概念なのである》

フェイ、銀行券、小切手、代用貨幣、私的な借用書、現代の銀行システムが使っている膨大な電子データ、これらはすべて、常に変動し続ける何兆という債権債務関係の残高を記録するための代用貨幣にすぎない。


<第2章 マネー前夜>

オデッセイア」にはマネーが出てこない。

マネーや市場がない時代、社会はどう機能していたのか。古代ギリシヤの暗黒時代には、戦利品の分配・互酬的な贈与交換・生け贄の分配という単純な制度があった。規模の小さい部族社会には典型的に見られるもの。

一方、古代メソポタミアでは? 

1929年 ウルクの発掘調査で、宮殿と神殿の取引の記録を詳細に記した粘土板が大量に出土した。紀元前4世紀のもので文字として最古。それは、エジプト、中国、中米のピクトグラムとは違い抽象的な記号(楔形文字)だった。ピクトグラム文字起源説が覆った。

さらに、粘土製の小さなあるものが一対一での数の勘定に使われたトークンであることに気づいた。1969年。あるものの数を記録するのにそれと同じ数の別ものを保管しておく方法。
これは数を勘定する技術としては、わかっているかぎりでは最も古いもの。

ここからメソポタミアウルクでは大きなイノベーションが生まれた。トークンそのものを使うのではなく、湿った粘土板にトークンを型押しして数を記録するようになった。

さらに、ヒツジ5頭を表すのに、ヒツジの記号を5つ書く代わりに、「5」という数を表す記号と「ヒツジ」という種類を表す記号がそれぞれ取り入れられた。

ここから抽象的な数という概念が必要になった。数が発明された。(1対1対応で数を勘定する段階では、数えられるものと切り離された「数」という概念は必要なかった)

文字と抽象的な数の概念が発明されたことで、メソポタミア社会の核となる三つ目の技術が発展する土台ができた。その技術が「会計」である。

メソポタミアにおいて文字および数の概念が発明されたことで会計という技術が誕生した。しかし貨幣はまだ出現していない。この2つがこの章の重点。

そして、古代メソポタミアでは、原始的な互酬性などの原理に代わり、現代の多国籍企業経営管理者がやっているような、緻密な経済計画システムの従って運営される複雑な経済が築かれていた。

しかし、古代メソポタミアは、古代の暗黒時代のギリシャと同じで、やはりマネーを使っていない。なぜマネーを発明しなかったのか。ある重要な要素が欠けていたからだ。それは、お金の単位。

*ここで挿入されるのは、国際度量衡総会が1960年に測定単位を統一した話。

6つの基本単位であるメートル・キログラム・秒・ケルビン(温度)・カンデラ(光度)・アンペア(電流)。測定単位はそれまで各地でバラバラだった。《海に重りを落として水深を測るのは、隣の村までの距離を歩いて測るのと基本的に同じだということを、だれも思いつかなかった》

この総会で、世界で通用する測定単位が発明され、それが現代のグローバル経済を緊密に結びつける中心的な役割を果たし、人間の思考を劇的に発展させた。

このようなめったにないことがマネーという領域でも起きた。*それが次章。古代ギリシャの文明期。


<第3章 エーゲ文明の発明>

ドルは何を測っているのか? 

ドルやポンドは何か物理的なものを表していると思いがち。硬貨のように物理的なものにその名前が刻まれていて、しかもそれが貴金属でできているのだから、そう考えるのが自然でもあろう。しかし見た目にだまされていはいけない。ドルやポンドは測定単位である。物理的な何かを表すのではない。アルフレッド・ミッチェル・インネス「この目がドルを見たことも、この手がドルに触れたことも、一度としてない」

*『分析哲学講義』(青山拓央)で、言葉の意味の奥深さ(実体のなさ)を両替に例えて説明していたことを思い出した。

ドルは何を測っているのか。「経済的価値」である。

精神世界にしか存在しないものでも、その価値はお金に換算して評価されてきた。贖宥がその例。つまり、経済的価値という概念が及ぶ範囲には制限などないように見える。人の命すらそうだ。

*こうした認識はとても面白いが、経済的価値というものが存在すること自体は同書ではいわば前提。そして「経済的価値という概念はどれくらい普遍的なのか」という問いこそが同書の主眼。そして著者は「普遍的なものではない」という鮮明な回答(立場)を繰り返し示していく。

経済的価値という概念と、国際単位系で測定される概念には、根本的な違いがある。《経済的価値は社会的現実の属性であり、そして、長さ、質量、温度などは、物理的世界の属性である》。すなわち、経済的価値は社会的現実の属性である。

*とはいえ、この章では経済的価値の誕生にも焦点を当てている。

マネー以前の世界、すなわち古代メソポタミアにも古代の暗黒時代のギリシヤにも、この「普遍的な経済的価値」という概念はなかった。

ギリシャにおける文字の発明は紀元前750〜700年。そして文字と数字は数十年でギリシャ世界に浸透した。そして過去に例をみない知的革命が起こった。《物事を定量化し、記録して、書かれていることをよく考え、批判する新しい能力を獲得することで、思考が解放されたのだ》

タレスは、初めて神話的な人格を離れ、宇宙は自然法によって支配されているとする説を唱えただけでなく、観察主体と観察対象となる客観的な物理的現象は分離したものであるという、これもまた革命的な推論を打ち立てた。たとえば日食の予測をした。

そこから、社会もまた自己と分離して存在する、という考えに至った。客観的な物理的現実があるなら客観的な社会的現実もあるだろうと。

そして、この新しい社会像には、客観的な社会的現実の基本構造を科学的に記述して理解できる類似の概念が必要だった(しかしそれは一体何なのだろう)。そして、そもそもの疑問として、なぜ、メソポタミアの文明が踏み入れたことのない領域を、ギリシャの原始的な文化が切り開くことになったのか。じつは、ギリシャは遅れていたのに、ではなく、遅れていたから、根本的な知的革命を起こせた。

新しい社会観に必要な基本要素である統一された普遍的で抽象的な概念が、ギリシャにはあった。*互酬性などのことを指している(後で詳しく)

メソポタミアには会計という高度な仕組みはあった。だがその後、神殿の官僚が抽象的な価値の単位を作り、それをもとにして投入物と産出物という異なる要素に資源を割り当てた。

ギリシャにそれまであったものは、生け贄を分け合うという互酬性。生け贄の儀式の原理は2つ。1つは社会的価値という概念。もう1つは社会的価値を共同体の全員に等しく与えるという考え方。*こうした古代暗黒ギリシャの概念があってこそ、古代ギリシャの貨幣が生まれたと、著者は考えるのだ。

改めてメソポタミアギリシャの違い。

メソポタミアにはマネーを構成する3要素のうち1つはあった。会計制度(文字と数字の発見から生まれた) しかし経済的価値という普遍的概念は必要なかった(官僚主義的な指令経済が高度だったから) 

一方、暗黒時代のギリシャには、普遍的な価値の原始的な概念があり、それを測る標準があった。だが会計制度はなかった(文字も数字も)

しかし(*ここが結論)《文字、数字、会計という東方の超現代的な技術が、野蛮な西方で萌芽した価値の普遍的な尺度という概念と組み合わさって、マネーが生まれる概念の前提条件がついに整ったのである》 *こうした分析は歴史学的にどこまで通用するのかは不明だが、じつに面白い。

そしてギリシャで起こったこと。古来からの儀式としての義務を相対的に置き換えて比較するなど、だれも考えもしなかっただろうが、それが新しい価値の尺度で評価されるようになった。その尺度こそが貨幣単位。紀元前6世紀の始めにはすでに貨幣単位が使われていた。

普遍的な経済的価値という新しい概念が生まれたことで、中央当局を介さずに債務を相殺できるようになった。(市場が機能するには、共通の価値の概念と、価値を測る標準化された共通の単位がなければいけない。*それがギリシャで誕生したということ)

*ここで実感されたはずのマネーの奇跡とは

伝統的な社会的義務を普遍的な価値の尺度(*貨幣単位)で評価できるようになっただけでなく、人から人へ譲渡できるようにもなったのだ。マネーという奇跡は、それくらい奇跡的なものを連れてきた。それが「市場」である

*「譲渡」というキーワード。それはまた「市場」という基本中の基本キーワードと分かちがたく結びつく。

この革命的な貨幣化が社会や文化に与えたインパクトはきわめて大きい。集約型の経済、固定された社会階層からなる絶対支配体制が終り、市場が取引の原理を作り、価値が人間の活動に指示を出し、野心、起業家精神イノベーションが次々に生まれるマネー社会の時代が到来していた。政治経済のレベルでは、マネーはこれまでになかったものを約束した。社会移動と政治の安定。

その結果生まれた社会はカオスには陥らない。なぜなら、生け贄を共同体で分け合う古代の制度から生まれていて、共同体意識が根底にあるから。

個人のレベルでも、自由の欲求および安定の欲求という相反する2つのものを両方とも手に入れるという奇跡が起こった。

それ以上に驚く意味合いがもう1つ。

《マネーによる支配は有益であるだけでなく公平でもあった。お金は短期と長期の「取引秩序」を融合させて、日常生活のささいなことがらと、時代を超えて社会の調和を実現するという深遠なことがらの両方を支配するとされたからだ。
 これは実に革命的な考え方であり、伝統的な神学とも倫理とも、まったく異質のものだった。市場で鶏肉を値切ることから、国や帝国政府が決定することまで、人間のすべての営みを、一つの論理、一つの社会的技術で規定できるというのである

これはまるで、ニュートンが、りんごの落下と地球の公転を同じ法則で説明したような大胆さを思わせる。お金は言葉と同じくらいすごい発明であるだけでなく、経済という営みは、科学という営みにすら似ているのかもしれない!

なんでもお金で買える(*そうした問題も浮上したということ)

カリフォルニアではいまやお金をはらえば刑務所の独房のランクを上げることができる。おでこを広告スペースとして売れるマイケル・サンデルはこれを嘆いた、「それをお金で買いますか」と。

《だが、これらの根底には、私たちの社会にはるか古来から、はるか深くに刻み込まれているものが横たわっている。それはマネーという社会的技術である》

ではマネーの支配者はだれなのか。次章へ。


<第4章 マネーの支配者はだれか?>

アルゼンチンの通貨危機では、国の通貨ペソではなく民間の紙幣や州の通貨が大いに流通した。いわばマネーによるレジスタンス。危機に直面していない国でも国の通貨からのがれようとする動きはある。地域通貨、プライベートマネー。

国は本当にマネーを支配しているのだろうか? 

《だが、人間は政治において天使ではないのと同様に、経済においても天使ではない》だから《マネーは、社会のより具体的な現れである「主権者(ソブリン)」に対して蓄積された流通債券で構成されるようになる》*つまり、プライベートマネーはうまくいかない。国がマネーを支配せざるをえない。

市場を支配する力の大きさ以上に、市場以外の領域を支配する主権者の力。ただし、だからといって主権者はデフォルトを起こさないわけではない。*この問題が同書の中盤から終盤の大テーマになっていく。

主権者と社会の利害が対立したらどうする? 

古代ギリシャの貨幣思想はこの疑問についてはあいまいだった。ところが、8000キロ東の国で、もう1つの偉大な哲学学校が創設されようとしていた。

紀元前4世紀の中国。戦国時代の最盛期。斉の都にあった学校。マネーシステムという道具について考察がなされていた。それが『管子』。アリストテレスと同時期だが、マネー観はまったく異なっていた。

管子の学者は「マネーは主権者=君主の道具である」とした。貨幣の価値は、入手可能な財の数量に対する貨幣の流通量に直接比例するとされた。したがって君主の役割は、貨幣の流通量を調節して財に対する貨幣の価値を買えることだった。

君主のとる政策は2つ。デフレ政策とインフレ政策。「国の貨幣の10分の9は君主の手にあり、10分の1が人民の手にあるということになれば、貨幣の価値が上がり、万物の価格は下がる」「君主が貨幣を用いて万物を買い入れれば、貨幣は下に流れ、物資は君主のもとに積みたくわえられて、万物の価格は騰貴して10倍になる」 *これが紀元前4世紀の中国の書物にあるというのが驚き。

そして紀元前202年、秦王朝が崩壊、戦乱へ。漢王朝は強力なデフレ政策をとった。この金融引締めはかつてないほど大きな痛みを伴い、民衆は強く反発した。評判があまりにも悪かったため、それ以後、皇帝以外の者による貨幣鋳造が認められた。これについては司馬遷が書いている。

この章の結論。中国の斉の貨幣思想は、主権者によるマネー支配を強化するためのものだった。ヨーロッパでは状況は真逆だった。ヨーロッパの貨幣思想はプラトンアリストテレスを土台にして発展したが、思想を前進させたのは主権者ではなく人民だった。しかもそれは、主権者のマネー支配を強めるためでなく、緩めるためのものだった。

なぜそうなったのか、次章へ。


<第5章 マネー権力の誕生>

失楽園――古代ローマのマネー社会

ローマの金融のインフラは巨大で複雑。広範囲に貨幣を媒介にするようになっていた。そのため、現代金融でよくある1つの現象を古代ローマ人はよく知っていた。それは信用危機。破産が続出し金融システムがマヒするなど。やがて、軍事力や政治力の衰えとともにマネー社会も衰退した。ヨーロッパはマネーの点でも暗黒時代=伝統社会に退行した。

▼ヨーロッパにおけるマネーのルネッサンス

12世紀の終盤。低地諸国でそれまで生産物で納められていた封建領主に支払う地代が貨幣地代に取って代わられるようになり、その流れはヨーロッパ全域に広まった。社会移動が始まり、野心と金銭欲が行動原理になった。中世のマンハッタンも誕生した(ボローニャで塔の高さを競うバカバカしい狂騒)

貨幣は硬貨、銀。しかし中世の硬貨は額面が刻印されていない!(=数字は記されていない) 貨幣を発行する主権者である君主の顔などの図柄だけ。この制度は君主に利点がある=効果の額面価値を引き下げれば、貨幣所有者すべてに富裕税を課すことになる。

しかし、硬貨は、額面が銀の価値を下回ると、銀として売られてしまう。そこで君主は銀の量を減らす。=悪鋳の横行。そもそも中世の君主には、領地からの収入以外に歳入を増やせなかった。封建領主に直接税や間接税を課すのは不可能だった。そのため、貨幣鋳造益はこのうえなく魅力的だった。1349年にはフランス国王の総収入の4分の3近くが貨幣鋳造益だった。

こうして、ヨーロッパの長い13世紀に再貨幣化がなされた。

そして2つの現象が現れた。
(1) 富をマネーで保有し、取引をマネーで行う個人や組織の階級が登場した(マネー権力者)
(2) 主権者が貨幣鋳造益という奇跡のような収入源を乱用するようになった。

そして、新たに生まれたマネー権力者たちが、君主の暴政に気づき、とうとう反旗を翻した。それは14世紀半ばのこと

このとき、西洋の貨幣思想が初めて、だれがマネーを管理すべきかという現実の政治をめぐる疑問に対して、明確な主眼を示した。それはその先、大きな関心を集めるようになるのだが、厚いベールもまとうことになった。その手段とは、金融政策である》 *「金融政策」また最重要のキーワードが登場した。

▼マネー権力の誕生

ニコレ・オレームという人。フランス。1360年ごろ、シャルル王太子に提出した小論文で、
マネーは君主の所有物ではなく共同体の所有物であるとした。

▼オレームのマネー改革案

しかしそれなら、君主以外の何がマネーの水準(鋳造益)を決める? その答:標準が完全に固定されているなら、民間の硬貨の需要によって貨幣量は決まる。硬貨がほしい人は銀を造幣局に持ち込んで硬貨を鋳造してもらえる。君主の金融政策は効果が限られているとオレームは結論。

オレームは非常に深いパラドクスを見つけていた。君主は貨幣鋳造権を乱用するので、その根深い衝動を抑える方法を見つけなければならない。このパラドクスは何世紀にもわたって貨幣思想につきまとう。《標準をむやみに変えるようなことがあってはならない。しかし、そうしたルールのせいで貨幣が一時的に不足するようなことになると、商業に望ましくない制約を加えることになってしまう》 貨幣の供給を調整する裁量をだれかに与える必要があるのでは?

オレームはこのパラドクスを解消しなかった。優先すべきは君主の歳入ではなく、共同体全般の商業であると説いた。

しかしオレームの主張は、説得力はあっても、効果はなかった。なぜなら、ソブリンマネーに代わるものがそもそもない。民間信用のマネー化は難しい。広く通用するのは君主の貨幣のみ。依然として独占した。

しかし、さらに、貴族と教会という政治権力の外側で商業革命が起き、新しい商人階級が台頭しつつあった。そして、オレームの理論ではできない方法で、マネー社会を根底から変える発明が行われた。それは、銀行である。*次章へ


<第6章 「吸血イカ」の自然史――「銀行」の発明>

*銀行とは要するに何なのかの基礎を知った感あり。その起源およびヨーロッパ経済史にもたらした巨大なインパクトとともに。

▼リヨンの謎の商人

1555年ごろリヨンの大市、あるイタリア商人の成功が物議をかもす。机1つとインク入れだけ、紙切れに署名するだけで大金を手にした。

長い13世紀に国際貿易の体系が変化し分業化が進んだ。貿易商が商品を世界に売り歩くことはなくなった。商人の主な仕事は、国際貿易の法律面や金融面。ブローデル「商品よりも信用に集中するようになり、市の中心はピラミッドの下層から頂点に移っていった」

交易市の期間外では、国際貿易の支払いは硬貨ではなく為替手形信用取引)。リヨンの大市の主な役割は、そうした為替手形による貸方と借方の残高清算。《商品をやりとりする市ではなく、お金をやりとりする市として、ヨーロッパで最も重要な市場になっていたのである》。市で行き交うのは手形の束ばかりだった。電話一本で、カネでカネを書い、カネでカネを売る。
*20世紀終盤に英米などの主要産業が製造業から金融業に転じたのと同じことが、大昔に起こっていたということになろうか。

*これがなぜ重要か。

ソブリンマネーをほとんど介さずに巨大な取引が行われること。《プライベートマネーを産業規模で生成し、管理する銀行業という技術を、ヨーロッパの大商会は再発見したのである》

▼信用ピラミッドの秘密

このとき新しい商人階級が直面したこと。主権者の利益と商人の利益が異なるときにマネー経済をどう運営するか。(通貨危機のアルゼンチンや、崩壊時のソ連も同じだった)

相互信用の私的ネットワークは? 問題あり。全員に信用力がありお互いを全員が知っている必要があるが、それには限界があった。また現実の世界ではソブリンマネーしか通貨として通用していない。

ヨーロッパの大商会は、その中間の選択肢を見つけた。階層型の信用体系の可能性を再発見した。大商会が地方商会の支払い約束を保証する(*国に代わって)。 そうすることで、流動性のなかった二者間の支払い約束が、債権者から債権者へと簡単に譲渡できる流動性のある債務になる(*「流動性」もまた必須キーワード) 。こうした私的な決済システムの創設が、現代の銀行業の原点となった。

▼銀行業の本質とは

銀行は通常の企業と違い実物資産をほとんど持たないことが多い。金融資産=支払い約束(預金、債権、手形、融資、証券)こそを蓄積している。

借用書には2つの特性がある。信用性と流動性

銀行は、借り手の資産と所得に対する信用力が低くて流動性のない請求権を、リスクが低くて流動性のある請求権に変換する。

*つまり、個々から取り立なければならない債券は回収リスクが大きいので誰も欲しがらないが、銀行がそれをまとめて売り出した場合は回収リスクは小さい(銀行はちゃんと払うだろうから)ので皆が欲しがる、ということだろう。

銀行業務の本質は、銀行の資産と負債から発生する資金の支払いと受け取りを全体として一致させることにほかならない。銀行の資産と負債とは、もちろん、すべての借り手と債権者のすべての負債と資産である。これこそが、中世時代の大国際商会が再発見していた技術だった

▼ハイリスクの国内銀行業

▼順風そのものの国際銀行業

中世経済でいちばん活況を呈していたのが国際貿易。しかも国を越えた商取引まで規制する権限は君主になかった。

これにからむ最大のイノベーションは「証書為替」システムの完成。さまざまな会計単位で表示された為替手形を、年4回開かれるリヨンの大市で清算する仕組み。

*これがどういう仕組みか、改めて説明。

イタリア商人はフィレンツェの大商会から為替手形を購入する。それにより、ただのイタリア商人の借用書が、大商会の信用のある借用書に代わり、ヨーロッパ中で通用する。そうすることで、イタリア商人は低地諸国の仕入れ先から商品を購入できる。イタリア商人は私的な信用をマネーに変換したのである。さらに、フィレンツェの貨幣建ての信用を、商品を購入しようとしている低地諸国の貨幣建ての信用と交換したことになる。

このときの為替手形はエキュという私的な貨幣単位。この単位のソブリンマネーは存在しない。それでもヨーロッパのさまざまなソブリンマネー建ての価格を基準に売買交渉できた。

こうした制度は、金融面でも政治面でも、はるかに大きな意味をもっていた。《為替銀行業者は少しずつ、私的な信用がマネーとしてヨーロッパ中に流通することを可能にする大きな機械の可動部を組み立てていたのである》

ここにはマネーの3つの基本要素がそろっていた。・抽象的な価値を表す独自の単位(エキュ・ドゥ・マルク) ・独自の会計制度 ・信用残高を清算する制度(為替手形とリヨンの大市) こうして証書為替制度は国内のソブリンマネーと連携する国際プライベートマネーになっていた。

この驚くべき偉業は、商業革命を後押しし、商人や銀行家に莫大な富をもたらした。しかも政治の大変革の呼び水となり、その後の金融の形を変えることになった。

*貨幣の国際化という点では、現在のグロバリゼーションそのものだと思える(要するにドルやユーロや円が世界のどこでも通用すること)。ただしこの時代の国際通貨はソブリンマネーではなかった! 世界最初のグローバル貨幣はプライベートマネーだったということになる。


<第7章 マネーの大和解>

マネー権力者(大商人たち)は今度は君主に圧力をかける側にまわった。ソブリンマネーが管理されなければソブリンマネーを放棄すると威嚇した。形勢は完全に逆転した

1551年、イングランド王室の財政は絶望的。そこでグレシャムの政策=ポンド売り圧力に対し外国為替市場に介入。これは先見の明(*為替介入という点で)といえるが、成果は不十分だった。

そのころフランスは華々しい文芸共和国であったが、政体・金融体は瀕死の状態。そのなかで啓蒙思想家たちは、マネーと銀行と政治の関係を初めて体系的に論じた。すなわち《無能な主権者がマネー特権を乱用したことで、銀行業が再発見され、証書為替制度というすばらしい仕組みが発明された。すると今度は、マネー権力者たちが奏でる音楽に合わせて、主権者のほうが踊らなければいけなくなった》と。

1767年、スチュアート「マネー社会は、専制政治の愚かさに対抗すべく発明された最も有効な手綱」

とはいえ、銀行家たちには、新しいプライベートマネーを強制的に通用させる強権はなかった。そのため貨幣的不均衡が慢性的に続く不安定な状況になった。

17世紀末にその歴史に終止符を打つ発明が出現しすべてが変わった。オランダが擁していた最先端の国内債務管理技術と、イングランド立憲君主制、この2つが組み合わさってできたイングランド銀行=マネーの大和解。

イングランド銀行の設立

国家財政を根本的に立て直す目的で銀行を設立。投資家は銀行に出資。銀行は政府に貸し付ける。そして国王は重要な特権(銀行券を発行する権利)を新銀行に与える。すなわち、銀行の債務を表象する紙幣を(*国家の権威に支えられた)マネーとして流通させることが許可されたのである。

《国王から紙幣を発行する特権が与えられれば、民間銀行の債務に君主の権威が加わることになる。これはマネーの賢者の石だった。マネーの大和解が成立すれば、私的なバンクマネーを狭い境界から解放することができる。銀行は国王にお金を貸し、国王は自分の権威を銀行に貸す》
《これ以降、貨幣鋳造特権は君主と銀行の間で共有されることになる》

《イギリスという国がなかったら、イングランド銀行は権威を失っていたし、イングランド銀行がなかったら、イギリスは信用を失っていた》

これが1694年。プライベートマネーとソブリンマネーの融合。これはマネーシステムの祖先であり、現在に至るまでマネー世界を支える基礎になってきた。

マネーの大和解は、貨幣思想に与えた影響も革命的だった。マネーは君主の道具ではなく、君主に対抗するための道具になった。

さらに、マネーが君主の道具であるという考えと、マネーは君主に対抗するための道具であるという考えには、共通点がいくつもあることから、マネーの大和解から「経済学」という社会科学が生まれた。すなわち、マネーは政治的なものではくなった(*経済学的なものになった) 

*「へ〜そうなのか」という感想。

*そしてどうなっていくか。ここは同書の展開として非常に重要

現代の標準的な貨幣観が登場しようとしていたのである

そして、この現代の標準的な貨幣観は「間違っている」と著者は主張するのである。しかも、その間違いの大元はなんとジョン・ロックだという。そして次章へ。
*ここまで綴られてきた古代、中世、近代の貨幣史は、同書にとっては前振りだったとも言える。それを踏まえないで読むと、次章から話が袋小路に入った印象になってしまう。


<第8章 ロック氏の経済的帰結 ――マネーの神格化>

▼大改鋳論争

マネーの大和解。しかし疑問あり。マネー発行のとき標準はどうなる? 政治の大和解である立憲君主制の未来もマネースキームに委ねられた。イングランドの硬貨は、まだ国のマネーの中心。

ウィリアム・ラウンズの解決策。根底にある問題は、ポンドの価値の下落=インフレ。反対に銀の価格は上昇。こうなったとき「緊急時や必要な場合、硬貨の価値を高めることが、絶えず行われてきた政策」。歴史的にも論理的にもこれ以外に妥当な政策対応はなかったとラウンズ。貨幣の標準は変化する。造幣局はこうした現実に適応すべし。市場と闘っても無駄なのだ。→そして改革案。イングランドの銀貨の銀の含有量を5分の4オンス程度にしよう。

ところがこの提案は、ある人物の激しい反対にあった。ジョン・ロック

ジョン・ロックの改鋳案

「銀こそが尺度である」とロックは考えていた。ポンドは、銀の一定の重さを表す客観的な標準(でしかない)と。すなわち、マネーには形而上的な側面がある。銀の含有量を変えるなんてのは「1フィートを12ではなく15に分割したものでも1インチと呼ぶ」ようなものだと。そして、銀の法定重量を満たす硬貨に鋳造し直す改鋳をと主張した。

しかしそれは完全なる大失敗に。470万ポンド相当の硬貨が国庫に回収されたが、公定の重量で作れたのは250万ポンドしかなかった。

そしてデフレに突入。その後、流通に戻される硬貨の量は減った。さらに価値の高いイングランドの硬貨は海外に流出した。硬貨が足りなくなりデフレに突入。物価が下がり景気は下がり、貿易は収縮した。

▼オリュンピア際のシュロの葉の冠

ラウンズらは、偉大な哲学者ロックの政策に当惑した。本当は、硬貨に含まれる銀の重量と額面価値の間に固有の関係はない過去にあったこともない。それは自明の事実貨幣の標準が固定されていたことはなかった。貨幣の価値を決めるのは、硬貨の素材ではなく、硬貨の額面価値を定める主権者の信用力と権威だった。

この貨幣観(上記)は難解な哲学や抽象的な経済理論から導かれたのではない。摩耗したり盗掘されたりした硬貨でも額面通りの価値で流通しているという明白な事実から導き出されたもの。

貨幣の価値は慣習によって決まる。古代ギリシャでは、ロックではなくラウンズらの貨幣観だった。ギリシャ文化は「象徴的代用物を使用する…傾向が非常に強い」。競技の賞品がシュロの葉の冠であることを、古代ペルシャ人は驚いたと、ヘロドトスは伝えている

中世スコラ哲学でも、アクィナスいわく、貨幣は「すべてのものの価値の尺度になるべきである…貨幣は自然によって存在するものではなく、人間によって作られた尺度であるからだ」。

ロックの貨幣観の根底にあるもの=人間は生まれながらにして財産を所有する権利を有しており、君主によって認められるものではない。貨幣観もこの新しい政治哲学に即したものでなければならなかった

金本位制

しかしロックは勝利した。そして銀が激減。そして金本位に。

貨幣の標準をどう管理するかという古代からのジレンマに、マネーの大和解はどのような審判を下すかという疑問は、(*ロックの貨幣観に強制される形で)決着した。貨幣は貴金属なので自然法にのっとて標準は固定させる。長さや重量や時間の標準を固定させる必要があるのとまったく同じ。すなわちロック流でいえば、貨幣の標準は重量の略号にすぎない、ということになる。

▼マネー社会の神格化

マンデヴィルの主張=共同体全体が最も望ましい結果を得るには、個人が野心や金銭欲や私利私欲をむき出しにして追及する以外に方法はない。この考えが、アダム・スミスに受け継がれた。

スミスの見えざる手。スミスが描いたのは、経済的価値があらゆるものの尺度になり、静的な伝統的社会の関係性が動的なマネー社会の関係性に取って代わられている社会の姿。それはマネー社会を経済と政治の均衡へと向かう客観的システムとして捉える見方だった。スミスは、マネー社会を経済と政治の両方の側面から完全に正当化し、貨幣思想の歴史の中で前例のないことを成し遂げていた。=マネーは神格化された。

ところがある問題があった(債務という問題)。次章へ

アダム・スミスの考えはロックの貨幣観に立脚しているから完全に間違ってる、と著者が考えているわけでもなさそうだが(そのあたりは先を読まないとわからない)