「近代知とその体系は根本的な変容を迫られているのではないか?」――世界史の専門家がこう述べるのは興味深い。
→ 全体的にカルチャーセンター的だった。この問題には誰もがまだ素人なのだろう。それにしても、1.5倍速で聞いたから、あっという間で、自分がAIになった気分だった。(とはいえ、AIなら4人の話を同時に1.5万倍速ぐらいで聞けるのだろうが)
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どういうことだ… きょう(16日)は「AIの意識」の日なんだろうか? 以下の記事、今読んだところ。驚嘆、驚嘆、瓢箪!!
そもそもAIに「意識があるかどうか」は原理的に答えにくく実際にも非常に難しい問いだが、さて今「このAIに意識があると思うか」と問われたら、「あってもいいが、おそらくない」。だけど「このAIに何があるのかというなら、知識がある。それだけは絶対的に確実だ」と答えたい。
人工知能が外見的な人の外見を真似るには、顔や手足や皮膚が必要だろう。まったく同じように、人工知能が人の内面を真似るには、言語や知識が必要なのだ。――当たり前すぎてあまり指摘されないが。
私たちは本やインターネットや先生や上司から多彩な知識を得る。おかげで初めてこのように何か書いたり言ったりコミュニケーションしたりできる。AIも同じだと思う。そして、私のこの知識が偽物でないなら、AIのあの知識も偽物であるはずがない。物語も作れる。感情や死についても語れる。
もう1つ言っておきたい――
人間の行いのうち人工知能に真似させたいものを私たちは「知能」と呼ぶ。
そして人間が人工知能にさせたいのは「入力に対する出力」しかも「記号の入力に対する記号の出力」とりわけ「言語記号による質問の入力に対する言語記号の回答の出力」だろう。このAIの如く。
◎過去の考察