東京永久観光

【2019 輪廻転生】

そうこうしているうちに…

猫が見る窓の外 から続く

 

そうこうしているうちに、私の大切な友人の一人が亡くなってしまった。

「死んだら終わりだ」ということを、自分が死んだあとに思うことはない、ということはよく言われるが、他人が死んだあとにはつくづく思い知るのだということを、つくづく思い知る。

あるいはむしろ、死の寂しさ虚しさの正体とは、その人の死をどれほど惜しんでも、その人は亡くなっているから、その人自身にはそれがまったく届かない、という事実に直面することなのかもしれない。

私がその人のことを振り返り思い返し問い直すことは、これからいくらでもできる。しかしそれをやっぱりその人は知り得ない。一人で生きるとはいわばそういうことだろう。逆に「人は一人で生きることはできない」のだとしたら、それは「死んだ人と一緒に生きることはできない」という意味だろう。

その人が病気と知ってから直接二人で話したのは一度きりになってしまった。思えばそれも夏だった。そのとき死ということについても少し話した。無神論や宇宙の意味ということについてもわりといろいろ話した(いつも私はそういう話ばかりする)

いや違った。そのあとの正月にもう一度会った。そのときはドラマ『いだてん』の話やオリンピックにからんだナショナリズムについて話した。それはあとから思えばその人がそのとき書こうとしていた芝居の脚本のテーマだったようだ。

ナショナリズムについて私の思いは昔とは少し異なり、すなわちその人の思いとも少し異なるようになってきたことを改めて感じることにもなった。そういうことについて本当はもっと話をしたかった。話をすべきだった。でも十分にはできなかった。もうその話はできない。

あまりに個人的だがもう1つ記しておく。これらの話をした前後の別の機会に、その人が子どものころ住んでいた場所が、私が子どものとき盆や正月に必ず泊まりに行っていた福井大学近くの母の実家のすぐそばだったことを知った。

こうした偶然はなんだかとても貴重な事実だと強く感じた。しかしどう貴重なのかうまく言葉にならないから十分伝えていない。そのとき私がそう感じたことは、いずれまた話すこともあるだろうと、どうやら思ってきた。しかしそう思ってきたこと自体ももう伝えられない。私が一人で思い出すだけだ。

死んだら終わりとはそういうことだ。

では、死んだら終わりでも寂しくなく虚しくもないようになるにはどうしたらいいのか? そんなことは絶対にできないのか?

私はこう思っている。――そうした絶対的理不尽を抱えてなお豊穣すぎる過剰すぎるように見えるこの世界が、まったくなかったのではなくなぜこのようにあるのか。その謎に正答があったとしたら… そのとき初めて「死んだら終わりであることの寂しさ虚しさ」は消えるか変わるかするのではないか。

 

さらに、以下に続く