東京永久観光

【2019 輪廻転生】

で、お前(私)はナショナリストなのか?


加藤紘一氏に緊急インタビュー/テロの背景とナショナリズムのあり方」
 http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000308


加藤さんはナショナリズム愛国心には3種類あって使い分けが必要だと述べている。ということは「根っこは同じ」という前提。しかし実は、根っこどころか幹から枝葉まで全部同じなのではないかと私は考える。つまり、ワールドカップで日本が負けて悔しいのも、海底油田でウロチョロされて悔しいのも、清酒よりワインがモテて悔しいのも、私の情緒としては変わらないということ。

たしかに抵抗のナショナリズムは危ない。だから1番目のナショナリズムだけは戦争を減らす方便としてぜひとも遠ざけておきたい。しかし私の気分の実態としては、胸のなかに2番目と3番目のナショナリズムだけが沸きたって1番目は冷たいまま、というのはなかなか難しい。「抵抗のナショナリズム」を十分に遠ざけるには、「競争のナショナリズム」も「誇るナショナリズム」も同時に遠ざけるしかない。

もうひとつ言うと、抵抗するナショナリズムに「やばい」というマイナス評価を与えるなら、競争や誇りのナショナリズムにも、たとえば「くだらない」というマイナス評価を与えるのが筋というものだろう。

そんなことで、結局きわめて苦しい矛盾にぶつかる。私は戦争が100%イヤだから避ける努力を100%したいが、ナショナリズム自体を100%遠ざけたいとは今のところ思っていない気がすること。競争や誇りのナショナリズムだって「非常にくだらない」と言いたいし、それが間違いなく「やばいナショナリズム」に通じると認めつつもだ。

だからこそ、ナショナリズムは危うくて面白いとも言える。

‥‥危うくて面白い、という言い方は咎められるべきだろうか。

北方領土近くで日本国民が殺されたり、北朝鮮に日本国民が拉致されたり、そこから巻き起こるナショナリズムだって、私の気分や情緒における現象にすぎないということだ。世界像の問題だということだ。私がもし何らかの理由で冥王星みたいに日本人の定義から外されたとき、そうした深刻な事件に対してすら、世界のどこか遠くの悲惨と同じく「へ〜え」と思うだけで胸に沸きたつものなど現れない可能性は十分ある。

原則的な話になってしまうけれど。戦争などで殺されたり痛かったりするのが(おそらく)現実であるのに比べたら、日本人という思いは観念だ。中国や北朝鮮や米国への苛だちや日本への親しみは、世界像と自分の立ち位置が変わればいくらでも変わりうる。

と思いつつも‥‥。

 *

参照:『kom’s log』 http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060901#p1

 

 * * *



関連でもう少し。

われわれ一般人はサッカーや野球はできないがナショナリズムはできる。

かねてより私は、ワールドカップなどにやけに熱くなっている自分の心情や社会の動静を眺めつつ、これはスポーツがナショナリズムを利用しているのか、ナショナリズムがスポーツを利用しているのか、どちらの光景なのだろうと首をひねってきた。そして、スポーツがナショナリズムを利用するのは痛快だが、ナショナリズムがスポーツを利用するのはいただけない、と思っていた。

しかしと、今正反対のことを思う。ナショナリズムがスポーツを利用して何が悪いのかと。

ナショナリズムというものは悪いものであるのかどうか(たとえば戦争というものや会社というものが、それぞれ悪いものであるのかどうかという問いと同じ)。良いナショナリズムのほかに悪いナショナリズムがあるのかどうか(悪い兵士と良い兵士の両方が存在するのかどうか、あるいは、良い会社と悪い会社の両方が存在するのかどうかというのと同じ)。そのことをまず問わねばならない。

それはそれとして。

サッカーや野球がゲームであり、たとえば言語すらゲームである側面があるとすれば、もちろんナショナリズムだってゲームでありえる。

それどころか、ゲームとしてはナショナリズムゲームのほうがいっそう面白い。

サッカーゲームや野球ゲームはあまりにも明瞭で単純だ。逆に、言語ゲームはというと、これは始まりも終りも分からず、試合をしているあるいは見ているという意識も薄く、要するに茫漠としすぎていて捕らえどころがない。

そこへいくと、ナショナリズムゲームというのはちょうどよい規模のゲームだ。ルールは単純なようで案外奥が深く、そして素人も玄人もなくブログや床屋談義を通じて好き勝手に参戦できて、場合によっては勝ったり負けたりすることもある。非常に鮮やかな体験になる。