1か月以上中断していたが(4月は忙しかった)、再び開く。
上巻の残り20〜30ページが未読だったので、ウォーミングアップをかねて1つ前の節から再読しはじめたところ、改めて深淵にして新鮮な理解が得られ、感動とともに恐怖に誘われる。
なぜなら、つい1か月半前に深く新しく知った重要な事柄を、私は、その1か月半の間にすっかり忘れてしまい、まったく同じ感動をリピートしているということだからだ! 自分が本当にホモ・サピエンス・サピエンスなのか、マジに疑いたくなってしまった。
1996年に中国蘭州で牛肉麺を初めて食べ、独特の美味に感動したが、のち、それが「独特かつ美味であること」自体は忘れなかったが、「どのように独特で美味か」をすっかり忘れ、数年後に中国でまた食べたとき、そうそう「このように独特で美味だった」と、感動をリピートしたのと同じ現象。
しかもその重要な事柄というのは、「生物の進化というのは、べつに人間のような高い知性に向かって進む、というものではない」という、最高級に不可欠な基礎知識だ。
この基礎知識は、たとえば「中世ヨーロッパで宗教裁判にかけられた魔女は本当は人間だったのです」とか「元寇のときに吹いた神風は、べつに神が仕組んだわけではありません」とか、本で読み、「え〜そうだったの〜、いや〜知らなかったな〜」とか深く新しく感動してしまうのに似ている。
しかしなぜ私は、「生物の進化は高い知性を目指す道のりではありえない」に、二度も納得させられたのか。それは、頭の中のどこかで私は、「宇宙にとって人間は本質的な存在なのでは?」「宇宙にとって知性は本質的な役割なのでは?」といった信仰のごとき希望を抱いているからではないか。
それはそれとして、「人間の知性は、地球の生物の歴史において、そしてたぶん宇宙全体にとっても、極端ではあるにせよ無数に起こったただの偶然の1つにすぎない」。これを本当に実感させられる気持ちは、じつに不思議だ。寂しいというか、奇妙というか…
人間が特別ではないと思い知るとき、はじめて、神がいないことを思い知るのだろうか。人間が特別ではないと思い知るとき、はじめて、私も君も彼も、みんな偶然生まれ、偶然死ぬのだということを、本当に思い知るのだろうか。熊本も三宮も偶然の出来事だと。
<これまでの読書経過>
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160208
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160214
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160320
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160330
なお私が読んでいるのはNHK出版から出た旧版の上巻(第3章まで) そう、NHK出版のほうは、上中下の計3巻なのだった。これもつい忘却する!(まだ2巻もある!)
というか「上巻」の次は「中巻」が普通なのか「下巻」が普通なのか、どっちかはっきりせよ。郷里のカレー屋に「中辛」と「並辛」の2つがあって、よく間違えた。「快速急行」は何番目に早いのだ、小田急線!