■全部読み終えて最後の感想
人間は、たとえば歩行という実に複雑なことも言語という実に複雑なものも、いつのまにか易易と身につけ楽々と行えるようになった。どちらもただ生息しているだけで備わってしまった。
環境のなかに置かれた体そして脳は、環境と触れ合うことで無数の知恵を獲得する。その知恵をまるごと積み上げさまざまに組み立てることで、人間は信じられないほど高度な技を実現させたのだ。
だから、鈴木健の夢想する奇跡も同じように起こるかもしれない。コンピュータとその巨大なネットワークが、私たちの体や脳と触れ合い、そのライフログを完璧に集積し無数の再構築を試みていったあかつきには、貨幣も、法や暴力ですらも、電算化・分散化・最適化された途方もないシステムとして実行可能、と考えることはできる。
この本を読もうと思ったのは、養老孟司が「久しぶりに野心的な本」と評していたことが大きい。
◎http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070002000c.html
これほど賞賛する意味を知りたかったが、読んでよくわかったように思う。
さらにもう一言――
だれかに対し、なにかに対し、恨むべきだ、壊すべきだ、なぜならこれこれこうだから、といったたぐいの、「ネガティブな社会思想」にしか、建前を超えた救済は存在しないと、思い込んでいたかもしれない。が、たとえば『なめらかな社会とその敵』(鈴木健)は、そうではないのだった!
…とまあ、まるでキリストや釈迦に出会ったかのような、大げさな感想になるのは、正直どうかとは思う。
でもまあ、この世に、いやもっと卑近に現代日本社会や近所社会に、100%絶望して自分を殺したり他人を殺したりする前に、読んでみるべき本や会ってみるべき人は、いくらでもあることは間違いない。たとえば、荒川修作さんとか(死なないはずが死んだけど)。関係ないが、岩合光昭さんとか。
「間違える」という状況は、自然にはなく、人間にしかない、と考えることができる。津波が間違って起こることはない。原発が間違って壊れることはある。
そして、『なめらかな社会とその敵』が標榜するのは、自然が間違えないのと同じように、間違えることのない人間、間違えることのない社会、というものなのだ。
そして、その間違えない人間や社会を、愛や悟りによって実現しようとしたのがイエスやブッダだとしたら、この本は、間違えない人間や社会を、コンピュータと自然の力を合体させることで、実現しようと目論んでいる。
この場合のコンピュータとは、主に、ソーシャルネットワークやライフログによって人間と社会を置き換えるような力の源泉のようなものだ。
『一般意志2.0』(東浩紀)の裏バージョンと位置づけてもいいのかもしれない。[asin:4062173980]
話が大げさになる一方だ。しかし、たとえば言語をもってしまった人間が、祖先とは決定的に違ってしまったように、電脳をもってしまった人間も、祖先とは決定的に違ってしまう可能性は大きい。
■隠し球がさいごに炸裂!
じつは、PICSYより分散投票より、とにかく「ええっ」とビックリしたのは、最後の最後に出てくる「敵の分散化・敵の電算化」とでもいうべき発想だった。
著者は「政治」「敵」「国家」「抹殺」といった社会の原理自体は不可避のものととらえる。そのうえでどうするかを模索する。
現状は、《外部に対しては戦争を厭わず、内部に対しては平和を維持しようとする国家という存在が、無根拠に生まれ、かつ根拠をもつようになる。国家は、外部においては公的な敵を軍隊で殲滅し、内部においては私的な敵への攻撃を警察が抑止する。敵を公的な敵と私的な敵の2つにきれいに分けることによって、一方では戦争を、また一方では平和な空間を、非対称につくりだす》
《この境界をなめらかにするためには、公的な敵と私的な敵をなめらかにする必要がある。ソーシャルネットワーク上に、なめらかな敵を定義することはできないだろうか。40パーセント敵で60パーセント味方であるような状態の記述がソーシャルネットワーク上に定義され、そこからネットワーク上を値が伝播していき、ある人とある人の間の敵の度合いが半自動的に計算される。それはつまり、100パーセント純粋に公的な敵など存在しなくなる社会でもある。これを伝播軍事同盟システムと呼ぶことにしよう。
この敵の度合いから、空間への立ち入りの抑止、財へのアクセスの禁止、暴力の執行にいたるまで、さまざまな法の自動実行が試みられるようになる。その場合、暴力自体が分散化した武器によって集合的に執行されるようになる。万人が少しずつ小さな武器をもち、その威力は、武器が集まることによって強くなるような性質をもっているとしよう。そうした武器のネットワークが集合知的に駆動されることによって、あらゆる刑は私刑として執行される。いわば、戦争はなくなったが、内部における「平和」は一部犠牲になっているような社会である》
かくも独創的で急進的な意見を、私は生まれて初めて聞いた。「あいた口がふさがらないほど面白い」と評すべきではないか。(同書のレビューでここを指摘しないなんて、さては最後まで読んでないね)
私たちひとりひとりが、他人や社会を日々正しく恨み正しく憎んでいれば、コンピュータのネットワークがそれをうまいこと回収し調整し、間違いなく悪いやつを、間違いなくやっつけてくれる。そんな社会が実現する夢だ。
ボルヘスの伝奇集に奇妙な一編があったのを思い出した。ある共同体では全員参加のクジびきが定期的に行われ、たまたま当たった1人が集中して不幸な目に会う。そんなおかしな制度をもつことで、その共同体の安定が維持されている。たしかそんな話だった。
ボルヘスの小説では、敵が当てずっぽうの偶然によって指定され、暴力は集中して勝手に実行される。鈴木健の発想では、敵がコンピュータ計算の必然によって調整され、暴力は分散して適正に実行されるのだ。
こうなったら私も、なめらかな敵を見越して、なめらかなテロルを、離散的に、ネットワーク的に、実行するとするか!(クリックすればよいのです)
このような比喩も示される。
《戦争を暴力の頻度分布に関する巨大地震のようなものだと考えてほしい。地震が解放するエネルギーの総量が一定だと仮定しよう。巨大地震のリスクを増やしても小さな地震の回数を減らすのがいいか、小さな地震を増やしても巨大地震のリスクをなくしたほうがいいかと聞かれれば、後者の立場をとる人のほうがい多いだろう》
なお、ボルヘス小説は「バビロニアのくじ」だ。上の記憶とはだいぶ違っていた。
◎http://petrosmiki.blog.so-net.ne.jp/2005-05-05(ストーリーが紹介されているのでリンク)
■ボロ儲けや大損はできないのかも
PICSYの章を読んでいた時、最初は以下のような違和感も感じた――
ふと思ったのだが、著者が描く価値伝搬貨幣PICSYとは、個人の履歴や評価がきっちり貨幣として保存され続けることを意味する。言い換えれば、ライフログ(個人の人生すべての記録)をまるごと所持金に換算する関数が実現する。
つまり、PICSYは、共同体によって評価される各個人の貢献度(共同体にとっての値段)を完璧に可視化する!
…待てよ、ということはつまり、成金とかもうありえなくなる? あるいは、ちょっと後ろ暗いことに金を使って内緒にしたくても、ログが残って全部ばればれなのか? (今のクレジットカードもすでに同じだろうが)
つまり、なめらかな社会では予想外の擾乱はもはや起こらない。宵越しの金など持ちたくなくても不可能で一生ついてまわる。
それは「お金が他者でなくなる」ことだとツイッターで指摘された。なるほど! たしかに、現在のお金は、思いがけずボロ儲けできたり、あっという間にすり減らしたりできる。十分なコントロールができず、傍若無人の天災のごとき暴れ方をされて私たちは翻弄されるしかない。しかし、だからこそ、お金は「夢」があるとも言える。
お金が得体のしれない他者でなくなる、つまり、お金が個人や社会の価値や関係をそのまま正確に映し出すものになったら、そんなものユートピアといえるのか、という疑念が生じる。
それでも、現在のお金の格差とそれゆえの貧困や増悪を、いったんチャラにしたいという思いが、PICSYにもあるのは間違いない。そしてそのあとは完全に正しい貨幣システムを実現しましょうというのが同書。
しかし凡人の私たちは、いったんチャラにはしてほしいけれど、そのあとはまた、適当にいい加減な貨幣システムのほうがいいかな、なんて思うのも事実だ。PICSYにも、徳政令や、浪費や博打をする余白や、好む人には札束で顔をはたく自由なども、組み込むとよいのかもしれない。
もうちょっと踏み込んで言うと、PICSY(価値伝播貨幣)の作用は、遺伝子の発現にも似ている。そこに蓄積された情報から誰も逃れられない(もちろん、逃れられないからこそ、ありがたいことに、ほうっておいても生命は正しく機能できる)。
親から授かった命(ゲノム)を正しいものとして尊ぶように、社会から授かった金(PICSY)も正しいものとして尊ぶことが求められるのかもしれない。言い換えれば、お金を「自由・きまま・勝手」にはできないのだ。それにひきかえ、現在の貨幣は、ぜんぜん正しくなくていびつで不公平だが、だからこそ、現状を思い切り踏みにじる勝手も許される(成金や徳政令や賭博もその例)
……てなことに気づき、同書を痛烈に批判した山形浩生さんの書評を読み直すと、なるほどと非常にうなずけるところがあった。
◎http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20130326/1364268478
ただ、同書を最後まで読むと、少なくともPICSYの目的は、個人の貢献度を可視化することではなく、組織が価値を囲い込みしづらくして組織をなめらかにする、というものだ。そこを押さえないといけないだろう。
それにしても、そもそもPICSYは実現するだろうか? NAMなどもひょっとしてと思わせて、やっぱりひょっとしなかった。そこからみれば、かつてマルクス主義経済なんてものが国家単位で「マジに実現した!」なんて、今から思えば空前絶後の奇天烈歴史だった。
■インターネット理想世界、その表と裏
全体として、『なめらかな社会とその敵』には、著者が分析し立脚する独自の世界像・社会像がある。読み進みにつれ、それが空前の驚きや感動をくりかえしくりかえし与えてくるのを止めることはできない。インターネットによってマジに迫っているかもしれないユートピアの、表そして裏を、否応なく夢想させる。
独自の世界像・社会像とは:
・生物と社会を同一のシステムとして、膜・核・網というキーワードで括ったこと
・価値が伝搬する貨幣 その構築の具体案
・政治参加などにおける個人の分散化
・コンピュータと人間がそれぞれ得意な計算を任せ合うイメージ
・公平な社会の原理の改めての追求 など
コンピュータと人間が得意な計算を任せ合うイメージとは、インターネット全体を1つの計算システムとみなし、各端末(つまり各人間)を1個の素子(脳でいえば1個のニューロン)とみなすようなイメージだ。
■ちなみに
この本、1万5千部も売れているそうで、勁草書房では『構造と力』(1983年)以来のベストセラーらしい。
■ちょうど選挙前だったから、分散投票の話も興味深かった
脳を2つに切り分け、1つは仕事、もう1つはネットを、同時にやっていたい。……いや、わりとけっこう、やっているか。私は1人じゃなく多数のレイヤー、かどうかはさておき、少なくとも私の脳は1つじゃない。
選挙の票もいくつにも分散したい。『なめらかな敵』(鈴木健)に、独創的アイディアが示されている!
0.5票×A党 + 0.3票×B党 + 0.2票×C党 = 1.0票
『なめらかな社会とその敵』の、あっと驚くアイディアは、票を分割できるだけでなく、その票を、だれもがだれにでも委任できること。
そんなややこしいプログラムを組まなくても、インターネット全体の見えざる手がうまく誘導してくれる、という発想が、『一般意志2.0』かも。
『なめらかな社会とその敵』は、そうした具体的アイディアの前提として、生命と社会のいずれもがいかなる原理で生成されるのかを分析して世界像を独自に示すところが比類なく興味深い。キーワードは「膜・核・網」。そして過去のいかなる世界とも異なるインターネット世界の独自性と可能性。
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