先日あるところで数人で話をしているうちに図らずも「神はあるのか」という議論になった。べつに私が先導したわけでもない。みんな気持ちのどこかで引っかかっているテーマなのだろう。
改めて考えをまとめる機会になった。
ものごとがそもそも存在することに、「基盤や根拠がないわけがない」と思えば神は有るように思えるし、「基盤や根拠があるわけがない」と思えば神は無いように思える。まずはそんな感じだろうか。
今言った「ものごとが存在することの基盤や根拠」というのは、この世界があることに「そもそも理由はあるのか」ということでよい。もうちょっと踏み込むと「意味」や「意図」や「目的」があるのかということでもよいだろう。
そのうえで思うのは――
そうした根拠や理由を見出すことを、私たちはまったくできない。できないことだけはまったく明らかと言うしかない。しかし、それでもまったく反対に、このありありとしたすべてのことの存在に「なんらの根拠も理由もない」としたら、やっぱりおかしいと言うしかない。
そのような意味合いとして、これはどうしても超越的なものを想定することになるのか、という気になってきた。
とはいえ、ここ数年で私は自分が無神論者だと自覚するようになってきた。なぜかといえば、「死んだら私は終わりだ」という寂しい確信がどうしても揺らがないからだ。しかし、この2つは矛盾する。世界の存在に超越的な理由があるなら、私が死んだら無になるというのは、腑に落ちない。
相変わらずの堂々巡り。
以下の趣旨の発言もあった。「人間には認識できない超越的なものがあるかもしれないのだから、自分の考えがすべて正しいと思うのは、おごりではないか」と。これにうなずく人は多いと思う。でも私はそれでも首をひねりたくなる。
それで考えたことが1つーー
たとえば「妊娠中絶」はOKかNGかを人間が判断しようというとき、「人間の認識を超越した何かがある」という思いは、しかしその判断を支えてくれるのか。またそれはOKとNGのどちらを支えるのか。本当は、超越的な何かになど私たちはまったく支えられようがないのではないか。
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上記とどれぐらい関係あるかはさておき、手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』を読んだ。
火の鳥(鳳凰編)|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL
「生きる? 死ぬ? それがなんだというんだ 宇宙のなかに 人生など いっさい無だ! ちっぽけなごみなのだ!」
主人公はこの境地に達する。それは悟りのようであり嘲けりや諦めのようでもあり…
奈良の都に大仏が建立される時代の物語。ちょうど干ばつが続き人も動物もどんどん死んでいく。建設中の大仏が「泣いている」と大騒ぎになる。仏殿内の突貫工事で夜通し火を焚いたために上昇気流が起こり、それが青銅の顔面で凝結して水滴になったとの説明が入る。
このころの人々は神仏というものを本当に信じていたのだろうか。災害は何かの戒めだと感じたのだろうか。祈りや占いでそれが避けられると思ったのだろうか。おそらくそうだろう。では一方、現在の私たちはどうだろう。そんなことはまったく信じていない、とも言えないようなのが面白いところだ。