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【2019 輪廻転生】

★人工知能のための哲学塾/三宅陽一郎

 人工知能のための哲学塾


ざっと読んだ。人工知能については従来のイメージが転倒し謎が深まるばかりなのだが、哲学そのものついては非常に勉強になった、という奇妙な本になった。

哲学について非常に勉強になったというのは、現象学とは何かが初めてわかった気がしたこと。著者はゲームのキャラクターを作る仕事をしている。そのキャラクターに「主観的な世界」を与えたいという。ではその主観的な世界とは何か。それをめぐる哲学こそが現象学、ということになる。

よく知らずイメージしにくかった現象学が、こうした構えでやさしく説かれたことで、不思議なことに、なんだか明瞭にイメージできたのだ。ただしそれは、現象学人工知能やゲームのキャラクターを通して説かれたからというより、単にやさしく説かれたからかもしれない(そういうものだろう)

しかしながら、ではゲームのキャラクターがもつ「主観的な世界」って何だ? そこは私にはまったくわからない。なぜまったくわからないかというと――

人間ならたしかに知能だけでなく感情や意識や主観があると言える。しかし人工知能とは、そうした人間の脳と心のさまざまな機能のうち、あえて知能だけを見きわめて電算的・機械的に作り出すものだと、少なくとも私は思っているからだ。

とはいうものの―― その、人間の「意識とは何か」「主観とは何か」はどうにもわからない。どうにも説明しにくい。その説明しにくいことの理由や原理を初めて説明したのが現象学だ、ということになるようだ。そのことに、私はこの本で今までになくピンときた。

そして、そういうふうに、現象学を通してちょっとだけピンときた「意識とは何か」「主観とは何か」をもとに、改めて考えると、意識や主観は「生物にしかありえない」という私のこれまでの固い常識を、ちょっとずらしてもみてもいい、という気にはなる。

言い換えれば、同書では「主観」や「意識」の定義が変更されているのだ。それどころか著者は、ゲームのキャラクターに「身体」まで想定している。「え? それっていったい?」 私としては首をひねるしかない、というか、常識がひねられるしかない。

もう1回私の固い常識を確認しておくと―― 意識とは、最も簡単に言えば、寝ているときや死んだ人にはなくて、起きているときの人だけにあるものだ。しかし意識は個人で感じるしかできないので、原理的に、他人に意識があるかどうかを自分で感じることはできない。

それでも、他人にも意識があると思う理由は、それこそ常識というものだろうが、それだけでなく、生物としての共通性が根拠になる。またチンパンジーにもネコにもイヌにも意識があると思う理由は、生物としての連続性が根拠といえる。意識をもつ猿と私には意識をもつ共通の祖先がいたはず、と。

しかし、現象学による意識の説明では、そうした意識のいわば実態から基本のからくりを抽出して説明しているようなので、その「抽出された基本的な意識のからくり」であれば、人工知能だろうとゲームのキャラクターだろうと当てはまらないこともない、ということになる。同書の最重点はここだろう。

こういうふうに読んできて、改めて「人間の意識とは何だろう」と考える。にわかに現象学っぽく考える。そして何か少しわかった気もしてくる。たとえば富士山を見ると富士山が見える。富士山の形や色が見えるし高さや組成もなんとなく見える。しかし富士山に私はそれだけを見ているのではない。

そのときには「志向性」や「体験」がキーワードになるようだ。たしかに、私たちの意識は、必ず「ある何か」に対する意識なのだ。太陽は「ある何か」に向って輝いてはいない。雨は「ある何か」に向って降ってはいない。溶岩は「ある何か」に向って噴出してはいない。君は「ある誰か」に殺意を抱く。

「アレクサさん、おはようございます。きょうはいい天気ですね。ところで、さわやかな曲ってなんかあります? ちょっと聴きたい気分なんですけど…」 人工知能に主観や意識があったら、こんなふうに頼まないといけないのだろうか。めんどくさいからメールで用件を連絡したい。