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【2019 輪廻転生】

★流れる/成瀬巳喜男

成瀬巳喜男『流れる』を久しぶりに視聴した(DVD)。なぜかというと、先日、台風の深刻な被害が千葉県に広がったニュースで鋸南町(きょなんまち)という地名を目にし、鋸山(のこぎりやま)のことが『流れる』に出てきたことを思い出したから。

つまり、ミームのネットワークが私の場合そうなっているんだろう。(ミーム:文化的なものごとが記憶され伝達され反復される1単位のことで、そのふるまいが遺伝子に見立てられる)

それはそれとして、『流れる』は面白くてしかたがない。今回も最初から最後まで目が離せなかった(2回視聴したが)。私は小説などは2時間も集中して読めず、クラシックの交響曲なども聴き通せない。映画はそもそもアテンションの奪い方や認知のモードが異なるのか? それともただの個人差か?

 

『流れる』は、なによりも山田五十鈴を撮った映画だと言えるだろう。ひとつひとつの立ち居振る舞いが完璧にみえる。背景の室内のたたずまいや画角なども選び抜かれていると思える。Wikipediaには、この時期(1956〜1958年)こそ「女優として最も充実した時期」とある。

さらに「大女優が競演」するのは周知のとおり。これも相変わらず面白い。杉村春子などは何を言うほぼわかっているのに古典落語みたいに可笑しい。田中絹代ときたら、心優しく賢く質素なお手伝いさんが本当にやってきたとしか思えないような、そんな動きを常に全身そして表情で見せる。

細面の美男子が出てきて目を見張り、それが仲谷昇だと思い返してまた目を見張る。中村伸郎は古い映画ではいろんな役でよく出くわすわけだが、『流れる』でも ああ「出てきたなと思い、また医者の役がぴったりとはまっていて、しみじみとした気持ちになる。

そしてノコギリ山の田舎からやってくる粗野な男が宮口精二。彼が芸者屋を営む山田五十鈴から金を脅し取ろうとすることが、この映画の物語を直接的に展開させていく。

 

それにしても、なぜこんな古い日本映画を見るのが楽しみなのだろう。筋書きは知っていて評価も固まっているため、負荷なく鑑賞できるからだろうか。反対に新しい映画を見に行くのはどうにも億劫であることも自覚する。過去をリピートしてばかりの人生。

というか、そもそも同じ映画を繰り返し見るというのは、過去のそれなりに長い時間の反復そのものだ。映画の映像や音声は完璧に反復されるのであり、それを視聴する体験もまたかなり完璧な反復だろう。これはなかなか大変な事実だ。映画以外になかなか類がないのではないか。

 

場面で意表を突くのは、ある夜更け、家の塀越しに中華そば屋の厨房が明るく映し出されるところ。家を訪ねてきた警官に夜食をふるまおうと、田中絹代が踏み台を使い塀の上に顔だけ出して向こうの中華屋に注文をするのだ。ちなみに猫のポンコが塀の上を歩いてこの場面をしめくくる。

映画とは「カメラワークを見るのだ」と言いたくなることがときどきある。そのとき、人の視線では通常見ることがないような位置や角度からの光景は、単純な話だが、とても新鮮に感じられる。

今私たちは、ドローンが手軽になり、身近な風景や物体を、思いもよらぬ角度で、しかも自在の動きとともに、あっけなく見せられて、圧倒されてしまっているわけだが、そのときは、映画が誕生したときの新鮮な驚きを、いっそう強調して体験しているのではないだろうか。

それまで誰ひとり見なかったものが、映画によって初めて見えるようになった。同じくドローンによって、初めて見えるようになった。これは、写真が誕生するまでは自分の顔をこれほどありありとまじまじと眺めることはできなかったのに等しい。

 

(話は戻って)大女優の競演ということなら、以下のサイトがことごとく言及している。

http://garadanikki.hatenablog.com/entry/20160221/1456009039

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B0000XB5OM