東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★岸和田少年愚連隊/井筒和幸(1996)

 岸和田少年愚連隊


アマゾンのプライムでついだらだら映画をみてしまう。これは投資なのか消費なのか浪費なのか? 

とはいえ『岸和田少年愚連隊』は、初めてみたけど、痛快だった。それにしても、やんちゃもまた100%青春の浪費だ。映画の冒頭シーンはラストシーンの先どりだったが、矢部少年はまったく成長せず。

そもそも浪費以外の青春の過ごし方をほとんど見たことがない。

脊椎動物の基本構造は遺伝子の使い回しが理由で進化していないそうだ(以下)。ついでに、祭りの騒動や青年の愚行も、なにを使い回しているのか、基本構造はたぶん進化していない。

https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/articles/a_00614.html


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(たまたまハロウィンの渋谷で軽トラが倒されるという騒動が話題になった)私はハロウィンもヤンキーも縁がなく、軽トラを倒すのも愚かとしか言いようがないが、これと同等の愚行を、私もかつて青年期にはやったかもしれないし、これから老年期にやるかもしれないので、私の愚行を、許してくれとは言わないが、世間が見つけることなく放っておいてくれることを、希望します。


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岸和田少年愚連隊』は1996年の映画だが、物語は1970年代前半。T.レックス「Get It On」とキャロル「ファンキー・モンキー・ベイビー」が流れる。私もラジオで聴いていた。この浅薄さと過剰さはこの映画にぴったり。

ところで映画は、矢部少年の恋人によるナレーションが、話の進行を眺める役を果たし、それが、上昇するだけの映画全体の熱を冷まし、どつきあいの痛々しさもやわらげる。こうした構造も面白い。私たちも、熱いときや痛いときは、自らナレーションで実況すると良いとされている(マインドフルネス)

それにしても、ナレーションとは人類史上いつ出現したのか。近代の小説を人々が読み始めて以降、ということはないか。たとえば、室町時代とかに田植えをしていた私の先祖が、人生に苦悩し自分の境遇を心の中でナレーションとして再構成していた、などということは、ありそうにない(あるのか?)

映画は小説より新しい表現なので、映画のナレーションは小説の習性をひきずっているのだろう。しかし、映画におけるナレーションは、映画全体の緊張や均衡を、さりげなく、しかしがらっと、くつがえす効果もある。天の声のようにも聞こえる。

いずれにしても、凡人がこぞって日々の様子を実況するようになったのは、21世紀のツイッター登場以降であることを、世界史には刻んでおいてほしい。