http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180826/p1 から続く
アレクサ、『有限性の後で』を要約して
うちにはアレクサがないので、こちら(下)の人間知能を頼る。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/220.html(これから徐々に読む予定)
3度めくらいの読書になるが、「あれ、ひょっとして自転車、補助輪なしで進んでる? ふらつくけども」という実感がある。
自転車にいったん乗れると、もう倒れることはまずない。不思議で仕方ないが、たぶん体と小脳とかが無意識のうちに仕事をしてくれている。人間の理解というのも、やっぱり脳が勝手にやってくれるところがあるのだろう。
脳が勝手にやってくれているのでなければ、たとえば「事実性」とか「例示と例化の違い」とか「カントにおける矛盾の位置づけ」とか、今、補助輪なしで すっと読めていることの、理由が説明できない。長生きはするものであり、長読みもするものである。無駄になるケースがとても多いとはいうものの。
それにしても、たとえばデカルトとカントがだいたいどういうことを考えたのか、それをまったく知らないのは、アメリカとロシアがだいたいどういう国なのかをまったく知らないくらいの欠落だよなと、もうホントにいい年になって、やっと実感する。
じゃあ私たちは何故、ぼーっと生きているのにもかかわらず、アメリカとロシアがだいたいどんな国かなら、知っているのか。テレビや新聞とかで毎日あれやこれやさんざん言及されるからという以外に理由はなかろう。私などアメリカに行ったことすらないのだから(ロシアはちょっと行ったけど)
だったらデカルトやカントについてだって、テレビや新聞は毎日毎日あれやこれや情報を垂れ流してもいいだろうに、と思う。「いやアメリカとロシアのあれやこれやのほうが明らかに伝える価値がありますから」とは言い切れないだろう。
それにしても「事実性」という用語は、ひょっとして「世界と自分がこうあることの、全体としての構図や根拠や価値の、説明や納得が、どうしてもすっきりできない、その長年の不思議な感じ」を、ひょっとして言い当てているかも、という気がしてきている。もう冬も近づいたけど、大変なことだ。
じゃあ「事実性」と「有限性」はどう違うのか、と聞かれると、え〜っととわからなくなってしまう程度ではあるものの。「あれ今、ヤンゴンにいるんだっけ、ホーチミンにいるんだっけ、どっちだっけ」という感じ。それでも今、アメリカにいるのでもなくロシアにいるのでもないことは、わかる。
ところで、また『有限性の後で』を読んだのは、新幹線で仙台まで日帰りした折りだ。そういえば、その前にじっくり読んだのも大阪と旭川に出張した新幹線や飛行機の中だった。乗り物と読み物。一生ひきこもりたいという密かな希望があるのだが、そうすると一生 難しい本を読まなくなる恐れがある。
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