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【2019 輪廻転生】

★映画術/塩田明彦

  
 映画術 その演出はなぜ心をつかむのか


塩田明彦監督の講義を採録した『映画術』(2014)を読む。

映画の本当の見どころとは何か。それは、たとえば物語の展開がどうであるか、人物の心情がどうであるかではない。やはり、それが映画という独特の道具立てや表現形式によっていかに成立しているかだ。それを改めて確信させる一冊。

そうした映画独自の表現形式として、真っ先に掲げられるのが「動線」なのだが、その実例として成瀬巳喜男『乱れる』が出てきたので、おおっと引きこまれた。

というのも、もう昨年末の話だが、NHKで放送された小津安二郎麦秋』があまりに面白く、ところがその直後、ついでのようにDVDを借りてみた『乱れる』がそれを上回って面白すぎた、という経緯があったから。(やっとここでそれをつぶやくことができて気が済んだ)

さて、塩田さんは『乱れる』という映画は、《ひと言で言うと、「ひとつ屋根の下で暮らす男女が、越えてはいけない一線を越えるかどうか」という話です》と言う。

そして、《この作品は、小説ではなく映画なので、「越えてはいけない一線」を視覚的に実在させなきゃいけない。そしてそれを本当に越えさせなきゃいけない。越えた瞬間、ハッと驚くような事件にしなくてはいけない――演出の要はすべてそこにあるんです》

こうした見方が面白いのは、「一線を超える」ということが、物語でも心情でもなく観念でも比喩でもなく、映画においては、実際の物体や場所のことであり、それをどう調達しどう組み立てるかの話になることなのだと、つくづく思う。

そして塩田監督は、『乱れる』高峰秀子加山雄三が同居する店と住まいでどう動くか、さらに衝撃のラストシーンの動きもそこに重ねながら、いかに「一線を超える」のかを具体的に解説する。

ここで興味深いのは、塩田監督自身の出自でもある自主映画は「この動線ということがわかってないね」と見ていること。成瀬巳喜男らが活躍した往年の日本あるいはハリウッドなどの商業映画なら当たり前なのに、と。映画がまさにそうした具体的な工法・技法の営みに他ならないことを思わせる。

《二人が距離を詰めるために正しい動線が組まれていると、二人の内面がどうであるかに関わらず、自然とサスペンスは生じるんです》《台所に立った姉が渡り板の上で立ち止まって、そこへ弟が近づいてくる瞬間、思わず手に汗を握りますよね》


ところで――

ここには、映画から少し離れてとても気になることがある。

「一線を越える」という言葉は、『乱れる』高峰秀子が死んだ夫の弟である加山雄三と恋仲になり結びつくことを、比喩として表現していると言える。では「一線を越える」という映画表現もまた、2人の恋仲の比喩なのか?

高峰秀子がいる部屋の暗がりに加山が思わず一歩踏み込んで入ってくる」このシーンの人物の動きや物の配置(映画表現)が、「一線を越える」という言葉(言語表現)に対応し、なおかつ「結びついてはならない男女が結びつくこと」という一般的な状況(ひょっとして概念そのもの?)に対応する。

さらに、今示した「加山が部屋の敷居をまたぐ」動きは、同じ映画で「高峰と加山が一緒に橋を渡って向こうに行く」動き(実際には思いとどまる動き)とも、「一線を越える」点で対応すると、塩田監督は分析する。

しかし待てよ……

「敷居をまたぐ」動きと「橋を渡る」動きとを、私たちはなぜ同じことだと受けとめるのだろう? どちらも、ただ家や町や建具や橋があり人がそこを動くだけであり、そもそも言葉でも概念でもないかもしれないのに。

――問いが散乱してしまった。

私が言ってみたいのはこういうことだ。

敷居をまたぐ動きや、橋を渡る動きは、それぞれ「一線を越える」という言葉を介することで、高峰と加山が恋仲になる出来事に、リンクされている。しかし、敷居をまたぐ動き自体と、橋を渡る動き自体とは、「一線を越える」という言葉を介さずとも、動き自体としてリンクされているように思われるのだ。

ここで思い出すべきは、「一線を越える」という言語表現は、〈恋仲になる〉という出来事を、比喩的に表しているわけだが、比喩とはすべてが最終的には身体をはじめとする物の様子の描写に行き着くとも言われていることだ。(給料が「上がる」は比喩。怪我が「重い」も比喩。眠りが「浅い」も比喩)

恋仲が「一線を越える」ももちろん比喩だ。しかし、敷居をまたぐ動き自体や、橋を渡る動き自体、さらには銀山温泉の一室で高峰と加山が互いに歩み寄り抱きあう動き自体も、「一線を越える」という言語(比喩)など介さずとも、動き自体としてもともと結びついている可能性は、ないのだろうか?

私たちはものごとを言語を基軸にして受けとめることに慣れすぎているので、動きそのものの関連自体はあまり自覚的に受けとめていない、とも言えるかもしれない。

しかし、たとえば猫なら、敷居をまたぐ動きと、橋を渡る動きは、やはりなんらか関連のあることとして受けとめているだろうが、そこに言語は存在しないはずだから、ではいったいなにがその2つをリンクしているのだろう。そんな疑問にも行き着く。

言語は、きわめて多数の事象のきわめて多彩な様相を、ことごとく表現できるような気がするわけだが、そんなすごいことは言語以外の媒介では原理的にできないのか? それが私の根本的な疑問で、絵や音を媒介にした万能表現を夢見ることもある。同じく、映画表現は万能表現になりうるのか?