東京永久観光

【2019 輪廻転生】

手段でなく目的として

とうとう買った。読もう! asin:4105372041


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◎2010.12.8(ツイッターまとめ)


『逆光』を読み始めてすぐに思ったこと――

自分のなかにある経験や知識のすべてを、もしまるごと盛り込もうというつもりなら、たしかに、こうした小説を書くことによってであれば可能なのではないか。いや、「自分のすべてを」というより「何かに関するすべてをもれなく」といったかんじか。

「ピンチョンはほとんどマスコミとの接触を持たず、その素性は知られていない」という紋切り型に等しい紹介がある(Wiki)のだが、人間嫌いだが誰かには自分が語るのを聞いて欲しくて、小説を書くのだろうか? 他人との交流をまったく絶ちたいと本気でおもっていたら、自分だけでなく他人のためをも考えて長い文章をつづり、それを公に出版したりするだろうか?

いや、するだろう。社会や人間とのかかわりが嫌いで嫌いで、といっても社会や人間のことが気にはなるので、たまにあれこれツイートしたりはする、といったことであれば、非常によくわかる!

(誰だったか、村上春樹は「小説をただ書きたかったからこの小説を書いたのではないか」といったようなことを述べていて、そうだそういうかんじだよね、と納得したのを思い出す)

自分の感触としては、テレビにもネットにも職場にも本屋にもあまりにたくさんの言葉があふれていて、漠然とそっちに引っ張られそうになるのが、なんだかもどかしく、やっぱり他人でなく一から十まで「自分のことばによって自分を引っ張っておきたくて」、ツイートするのかも。

引っ張られるという感触は、『逆光』の最初が、上空を移動する飛行船のゴンドラのなかでの出来事から始まるので、それに影響されたか?

『逆光』の舞台は19世紀末のアメリカ。フロンティアが消滅して南北戦争も終わった時代ということだ。コロンブス400年記念と銘打ち、シカゴで万国博覧会が開かれている。

ライト兄弟による有人飛行は1903年なので、1892年にこうした上空からの眺めやストーリー進行を進めようと思ったら、飛行船ということになる。(乗り物に乗っている感覚というのは、鉄道と飛行機では違う。船と自動車でも違う。飛行船はどんなかんじだろう。馬車や籠も知らないけど)

その飛行船では、シカゴ万博の会場近くに降り立つ直前、飛行船を浮かべている水素が、手違いによってどんどん漏れ出す。なんとなくドリフの「8時だよ! 全員集合」のコントの最後のドタバタみたいだった。(ちなみに飛行船の名は「不都合」という)

その一方、安定して下降し地上が近づいてくるときの描写は以下。《無定型だった自由が直線と直角と選択肢の漸減を通じて合理的な動きに変えられていき、最後のゲートをくぐって最後の角を曲がるとそこに食肉加工場が待っているかのようだった》(P21-22)

このあいだ海外旅行して帰国した時、千葉の海から成田に降り立ったとき、だんだん近くなってくる地上のデザインが なんかそんなかんじだった。

その飛行機で、もう一つおもしろかったこと。日本列島の上空をずっと東進したので、日本列島の地形が手に取るようにわかり、本当に目が離せなかった。海岸線のギザギザ、川が流れる形などがよく見える。デジカメに撮って後から調べたらまったく地図の地形にそっくりだ。――あるいはGoogleMapそっくりというべきか。いや、GoogleMapは同じく写真なのでそっくりというのはおかしいか。

さて、『逆光』のその頃のアメリカ(19世紀の終末)では、どうも労働運動的な無政府主義やゲリラ闘争のようなことが起こっていたようで、読んでいるほうは、21世紀初頭の今になんとなく重なってくる。

それと、この小説は2006年の刊行なので、作家ピンチョンとしては、911を見聞きしたのちに最初に発表した小説、ということに一応なる。

「富によって日々の苦労から隔てられていない人間なら誰でも社会主義者」なんてことを、ある登場人物がしゃべったりもする。

しかし、話はべつにそういう話に集中していくわけでもなさそうだ。どんな話かというと、まだまったくわからないが、地球を巨大共振体にして電力を作り出すというテスラ装置というものが構想されているので、こっちはそれを無力化する逆変圧器というものを作りたいのだ、といったような話(?)

しかし一方(しかし一方、という接続詞が適切かどうかは自信がないが)、こんな記述もある。

《罪と償いと救いとの間に数学的な相関関係があると思っている人が多い。罪の多い人はその分たくさんの償いが必要だとか。私たちの考えでは、そこに関係はない。すべての変数は独立なのだ。罪を犯したから償いをするのではない、償いをするのが運命だから償いをする。償いをすることで救われるのではなく、たまたま救われる。あるいはたまたま救われない》

「世界は法則によって記述できるのか、あるいは記述などできないのか」という問いこそが、この小説のテーマなのではないか! ――といちいち気がはやっていたのでは、この小説の読書は体が(頭も)もたないのであった。

それしても。マイケルソンとモーリーが今しも光の伝達のしくみについて実験しようとしていて、周囲の街の酒場にはエーテル主義者が群れ集って異様な空気をかもしだしている。そんな時代がホントにあったのだろうなあ。最近のニュースでいうと、すわ、地球外生命がついに? といった感じか。

19世紀終末、フロンティアの消滅とはカウボーイの消滅をも意味していたようだ。アメリカの魂の旅はそこで終わる。これはけっこう重要な背景になっていると思われる。このあいだ、龍馬伝で武士や刀が無用になっていく変化に思いをはせたのだが、ちょっと似てるか。時代もぴったり。

この小説が上空からの視線で始まっている、ということに関連して、一言言い忘れた。

上空からの眺めというのは、私たちにとってはグーグルマップによっていつのまにか実にありふれた眺めになってしまったわけだが、もともと上空からの眺めは、空襲をする航空機の乗組員の視線でもある。――なんかそんなことが、仲俣暁生 『極西文学論』にあったのを思い出すが、それとともに、やっぱり911の乗っ取り攻撃のパイロットが、最後に上空からどんなニューヨークを眺めたのかとか、いやいやWTCは上空からではなく真横から眺めたのだな、なんてことを考える。

おまけに(おまけでもないか)、オーストリアの皇太子が、そのシカゴの万博を見に来て、市中で勝手な行動もしているのが面白い。オーストリアの皇太子とは、例の、セルビアの少年に暗殺されて第1次大戦の契機になった、あのオーストリアの皇太子(と思ったが、別人かも)。小説の中で、ハンガリーからの移民をあしざまに言う。

――トマス・ピンチョン『逆光』について、ずいぶん嬉々として書いている。が、『逆光』を嬉々として読んでいるわけではまったくない。小説って、それを読むより、それについて書くほうが楽しい、ものなのか? いやすべての小説がそうではないだろう。それについて書くとなんだかもうすっかり止まらなくなる小説なんて、そう多いものではないだろう。(まだ上巻の10分の1しか読んでいないのに)

「ひょっとすると、資本主義自身が錬金術っていう古い魔術を必要としなくなったってことかもな」「だって、そうだろ? 資本主義は独自の魔術を持ってて、それで十分間に合ってる。鉛を金に変えなくたって、貧しい人間の汗を搾り取って、それをドル札に換えて、鉛は治安維持のためにそのまま取っておくんだから」(p123)

資本主義に関する「ピンチョンならではの批評」というほど鋭くはまったくないが、べつに鈍い表現であれ、20世紀や21世紀に長い小説を書いていて、資本主義ということについて一度や二度は真剣にぶちあたらないようなことがありえるはずもなく、最後まで筆がスルーすることもありえないだろう。

このあいだ、『続・夕陽のガンマン』をDVDでみた。面白すぎ。で、この映画には南北戦争アメリカが出てくる。『逆光』は30年ほどあと。

それはそうと、マカロニウェスタン(スパゲッティウェスタン)というのは、イタリアでアメリカの売れない俳優を招いて疑似ウェスタンを作ったら当たってしまい、「世界の映画」の歴史になってしまい、そのうち役者が足りなくなってイタリア人俳優もどんどん出るようになったもの。映画史といったって、こうした瓢箪から駒みたいな流行の中で作られるのだということが面白い。もっと偉そうな感じのする「文学史」もそんなところだろう。だいたい、なんでイタリアとかスペインのスタジオにアメリカとメキシコの国境とか作るのだ。それで「アミーゴ」とか、面白すぎである。

文学は19世紀に隆盛し、映画は20世紀に隆盛した、とも言えるのか? 今どき「大小説なんて…」という時代なのだろうか? それと、じゃあ21世紀に隆盛するのは、ソーシャルゲームとかだろうか? 

上に記した、飛行機で日本列島上空や成田空港上空を眺めた話の続きがある――

海岸線とはフラクタルなものだということが言われているが、上空から眺めた地上の様相全体もまたフラクタルであることに私は気づいた。

つまり、今みているこの地形が「どれくらいのサイズか分からなくなる」ということ。10キロ四方を眺めているのか、1キロ四方を眺めているのか。なぜかというと、見えているものはるか上空の段階から地上にかなり近づいた段階まで、眺めている全体の様相というのは、どれも似ているためだと思われる。

で、ピンチョンの小説を読んでいるときがまた、1文節単位で起こっていることや感じられることが、1ページ単位、あるいは、もっと大きな単位におけるそれらと、なんだか区別がつかなくなるのだ。

地図では単調な形の海岸線も、そこに降りてた辿ってみればもっと複雑であり、それを虫眼鏡でたどれば さらに複雑。小説の文章も、全体はもちろん複雑だが、個々の部分も、虫眼鏡を使うかのように読んだならば、いくらでも複雑な意味が引き出されることになる。

つまりフラクタル。文章自体がフラクタルに生成されるということはないだろうが、われわれの認識というか、「ことばを書いたり読んだりして思い浮かべること」なんてたかがしれているから、長い長い小説を読んでも、短い短いツイートを読んでも、出て来た感想の様相はさして変わらぬ、ということかも。


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◎2010.12.12(ツイッターまとめ)


生物多様性や生態系の話では、「生産者」(植物)と「消費者」(動物)以外に、「分解者」(微生物)という概念が出てくる。

これを、『逆光』に当てはめると、もちろん生産者は書いたトマス・ピンチョンで消費者は読んでいるこの私なのだろうが、加えて、読者は消費者であるとともに分解者でもあるのだろう。

生態系における分解者は、有機物を無機物に分解する。小説の人物の有機的な七転八倒を、私はなんらかの無機的で不活性な要素にまで戻していく? 

加えて―― 生態系における消費者は重層的だ。つまりニンジンをたべるウサギをライオンが食べる。草を食べる牛を人が食べる。読書においても、ある文や章を読むことは消費に当たるが、それによって浮上した出来事や人物や行動や思考を、読み手はさらに消費することで、ひとつ上位の意味を形成する。

そうした重層的な消費がいくらでも可能であり、かつ重層的な消費がどうしても必要であるのが、たとえばこのピンチョンの『逆光』を読む際の特徴だと思われる。

というわけで、こうした多層的な消費や分解を、ほかでもない読者の私が今していくことによって、この小説という生態系は初めて繁茂し維持されていくのだ。そう考えると、この先行きの見えない読書にも甲斐というものが感じられる。

有機物を無機物に分解する=これもまた読書」というとらえ方を思いついたとき、ふと思い出したのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の図書館だ。たしか頭骨に込められたなにかを読みとって発散・解放していくような仕事を、主人公はしていた。――「夢読み」か。(asin:4103534176

たとえばピンチョンの『逆光』と村上春樹の『ノルウェイの森』を、生物多様性という比喩で比べてみると、ピンチョンのほうがいかにも多様なかんじがする。しかしそれは一見そうみえるだけで、ノルウェイの森もいくらでも多層的な消費や分解は可能なのだろう。

いろいろ難しく書いたが、つまり「深読み」ということか。


(追記:)
…いやまったく違う。ノルウェイの森はたしかに「深読み可能、深読み必要」かもしれないが、『逆光』は書いてあること自体が深すぎるのだ。読者はその深さまで達すればもう十分すぎるのであり、それより浅くしか達しないのが普通だろう。深読みなんてとてもとても。不可能であり、不必要かもしれないではないか。そうか、もしや「読者に深読みなどさせてたまるか、私の思考のほうが最も情報量が多いのだから」というのが作者のもくろみなのか?