「敵の敵は味方」というのは、社会法則なのだろうか、自然法則なのだろうか? そんな基本的な問いが浮かんだ。というのも──
啓蒙の18世紀の小説『カンディド』(ヴォルテール)を読んでいる。作中、南米の人食い族がイエズス会士を獲物にする。ヨーロッパから来た主人公たちは、キリスト教・人道・国際法を持ち出して「人間を煮たり焼いたりする」のを戒める。そしてもう1つの根拠が、私たちは「諸君の敵の敵なのだよ」
ところで、なぜこんな小説を読んでいるかというと、『世界文学のアーキテクチャ』(福嶋亮大)に触発された。小説の起源や正体ということを一から再考させられ、昔の小説が猛烈に読みたくなる。モンテスキューが書いたという『ペルシア人の手紙』も初めて読んでみた。コンラッド『闇の奥』も同様。
→『世界文学のアーキテクチャ』を機に手にした本がまだあり、バフチン『ドストエフスキーの詩学』。思えばニューアカの頃からよく聞く名前だったが、なんか面倒くさそうで読んだことがなかった。ドストエフスキーの小説は複数の登場人物の声によるポリフォニーだとの主旨。
ポリフォニーだからモノフォニーではない、弁証法ではない、イデアを描く哲学小説ではないとの説明が繰り返され、かといって多数の声が単にバラバラではないことも強調され、う〜んどういうことかと思案中。
そこに思いがけず、まったく別の本から「ポリフォニー」という用語が飛び出した。
それは『斜め論』(松本卓也)。精神医療の1つ「オープンダイアローグ」を説明するなか、ごくごく自然に出てきた。
《この治療法はむしろ、専門家や患者といった単一の声(モノフォニー)をもつ人物が主体の座を占めることに反対し、多数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間のなかで主体を別様に機能させる実践なのである》
ドストエフスキーと精神医療に直接の関係はないと思うが、オープンダイアローグに関する「ポリフォニー」という形容(比喩)は、たしかにそのとおりという感触があり、それでバフチンの長々しい批評も、初めて「ああそういうこと?」と直感できた気がした。
なおもう1つ、ポリフォニーという言葉で すでに ぼんやり思い出されていたものがあった。それは濱口竜介の映画。1つは『ハッピーアワー』とりわけ第3部ある女性作家の朗読会のシーン。もう1つは『悪は存在しない』─巻き上がった気持ちが焦点を結びにくかったが、これがもしやポリフォニー?
個人的には、ドストエフスキーもオープンダイアログも、もともと特に謎ということはなく、「ポリフォニー」とか言われなくても、べつに大丈夫だったかもしれない。しかし濱口竜介の映画は、ずっと謎そのものだったのであり、「ポリフォニー」という視点が、ついにその謎を溶解するかもしれない。
(参考)『ハッピーアワー』の衝撃:https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/20160102/p1