東京永久観光

【2019 輪廻転生】

終戦の嬉しさ、敗戦の悔しさ

こうの史代この世界の片隅に』で、8月15日に玉音放送を聞いたすずは、「負けたいう事かね…?」「ハー 終わった 終わった」と安堵する周囲の人とは違い、「最後のひとりまで戦うじゃなかったんかね?」「いまここへまだ五人も居るのに!」「うちはこんなん納得出来ん!!!」と叫ぶ。

去年その映画を見ていて私は、このシーンがどうしても気になった。

すずさんは、戦争が終わった嬉しさより、戦争に負けた悔しさこそを、強烈に感じているんだ! と、私も強烈に感じたのだ。

でもそれって単純な反戦ではないので、妙な気持ちにもなり、なおさらずっと気になっていて、それで今年になって原作のそのページを読んでみた(先に書いたのはその引用)。

先ほどのシーンに続く言葉はこうなっている。

「飛び去っていく」「この国から正義が飛び去っていく」 すず「暴力で従えとったいう事か」「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」「それがこの国の正体かね」「うちも知らんまま死にたかったなあ……」

改めて確信した。

映画の評などでは「暴力で従えとったいう事か」というセリフが注目されているようだが、同時にすずは「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」というふうにも強く問いかけている。

では、ここですずが言う、飛び去っていく正義とは、この国の正体とは、そして、うちも知らんまま死にたかったものとは、いったい何なのか。

「暴力で従えとった事」もたしかにそうだろう。しかしそれよりなにより「暴力に屈するいう事」こそを強く指し示しているのではないか。私はそう確信した。

さて、原作のその先をめくると、最大の涙をこぼして打ちひしがれるすずの頭を、だれかの手がそっとなでる。この手はどのような意味合いなのだろう。

あまりはっきりとはわからない。ただ、戦争を直接知らない私であっても、戦争であまりにもひどいめにあったうえに、侵略国そして敗戦国に生まれてしまったことの心情は、なんとも複雑で厄介で、だれかにそっとなでてほしい気持ち、なでてほしいのになでてもらえない気持ちを、ずっと長いあいだ抱えてきたように思う。

こう考えて、これも昨年読み直した『敗戦後論』(加藤典洋)が、なぜあんなに私の心に引っかかるのかというと、そうした複雑で厄介な心情に唯一ちゃんと触れてくるからなのだと気づいた。あの手のようにそっとなでてくれる論考ではないものの。

そして、私にとって『敗戦後論』と『この世界の片隅に』をつないでいるものが何であるのかも、また、『この世界の片隅に』が『敗戦後論』と同じように重要な存在であることも、ようやくはっきりしてきたのだった。


この世界の片隅に
 この世界の片隅に 上 (アクションコミックス) この世界の片隅に [Blu-ray]

◎映画『この世界の片隅に』 感想
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20161121/p1


敗戦後論加藤典洋
 敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

◎『敗戦後論』 以前の感想
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20161020/p1


 ※


<2020年8月9日>
上記の台詞をめぐり、興味深い指摘を知った(以下)
gendai.ismedia.jp
(映画の台詞は漫画の台詞を一部改変したという)