東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★映画『この世界の片隅に』


きのう見てきた。

すずは最も大切なものをあれよあれよと次々に奪われていく。悲惨すぎるのに健気すぎる。

敗戦という途方もない傷を抱えていく痛み、そしてそれを忘れていく痛み、というようなことを、私は一番強く思った。

【ネタバレ警報】【ネタバレ警報】【ネタバレ警報】特にそう思ったのは、すずが姪を失い右手を失い、それでも生き長らえてしまい、しかも生活は不便ながらも変わらず淡々と続いていくくだり。なんとも言えない居心地の悪さと不憫さを感じてしまった。

そしてまた、呉の空襲も広島の原爆も不気味で恐ろしいが、どこか平静な日常でもあったところ。玉音放送すらなんとなく気もそぞろであったところ。これらの場面で通常予想されるゴールの感覚、無限の盛り上がりの感覚が、あえて欠いているように思われた。そうした決着のつかなさの居心地の悪さ。

敗戦とは「華々しく死んで終わること」であった人が多いと思われるが、一方で、敗戦というものが「一生を明らかに台なしにするかけがえのない欠如をもたらされ、しかもその欠如を忘れられないはずなのに忘れていく」ようなことであった人も、とても多いのだろう。

おそらく加藤典洋敗戦後論』を少し前に読んでいたから、こんな感想がまず出てきたのだと思う。そうしてみれば、『敗戦後論』はひとえに「敗戦という傷をなぜそんなになかったことにできるのか」と問うているのだと改めて思う。

すずの叫び。玉音放送の直後だったか?「こんなことのために頑張ってきたんじゃない!」(記憶)。それは姪を失ったときと同じくらい痛切だった。戦争が終り憲兵などもいなくなり空襲もなくなり、これほど喜ばしいことはないのだろう。しかし戦争に負けるのは「悔しい」にきまっていただろう。(←これは私が誤解している可能性もある)

そのように、敗戦が決定的な欠如・決定的な悔しさであったことを、日本人はいわば忘れたことにしたのだろう。そして忘れたようで忘れてはいない健気な悔恨、または、忘れていないのに忘れたことにした希薄な怨念が、70年以上たってもどこかでくすぶっているのが、日本の戦後なのではないか。