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【2019 輪廻転生】

★哲学探究/ウィトゲンシュタイン

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180430/p1から続く


私たちが哲学というドツボにハマらないためにはどうしたらいいのか。ウィトゲンシュタインは、最初の著書『論理哲学論考』では、「言葉にできることは実はあまりにも限られている」ことを徹底的に説いた。それによって「ドツボは完全に回避できた」と信じた。

しかし、第二のそして最後の著書『哲学探究』では、むしろ「言葉がしていることはあまりにも幅広い」ことを淡々と記していった。それを忘れたときにこそ「哲学のドツボにハマるのだ」と警告した。

だから、『論理哲学論考』と『哲学探究』は著しく対照的な本だろうが、「哲学という過ちがどうしても許せない」という動機は一貫しているように思われる。また、その過ちが「言語への誤解から生じる」と見抜いている点も共通しているように思われる。

そして、きわめて厄介なものであるにせよ「そもそも言語とは何なのだ?」という強迫観念のごとき興味が彼の根底にはあったのだろう。その追求のポイントが、『論考』では「言語の骨格はどうなってる?」であり、『探究』では「言語の肉付きはどうなってる?」であったように思える。


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哲学探究』は「言葉がしていることがあまりに幅広い」ことを記している、と書いた。これは非常に重要な事実なのに、私たちは案外実感していない。しかし、たとえば「命令する」とき、「感謝する」とき、「記述する」とき、「謎を解く」とき、「冗談を言う」とき、言葉の使われ方は、みな異なる。

要するに、「言葉の使われ方は、とても多様なのに、まるで一様であるように錯覚している」ということ。

ここで私は今回、ハタと気がついた。これは、スティーブン・ピンカーが、「心の働きは、とても多様なのに、まるで一様であるように錯覚してるよ、みんな」と書いていたのと、非常に似たことだ!

ピンカーは、たとえば感情という心の働きと思考という心の働きではまったく違うことを指摘する。もちろん脳の神経細胞はすべて一様だが、それがまとまって形成されるモジュールは、まったく別の機械なのだ。これは、細胞はすべて似ているのに心臓や肺などのモジュール単位では全く異なるのと同じ。

そしてなんと言葉もそうなのだ。どんな場合も、音声や文字だし、単語一つ一つをみれば同じだし、文としての見かけもたいして変わらない。しかし、私たちがなにか命令するのと、なにか記述するのと、なにか感謝するのとでは、言葉の使い方の要領はそうとう違う、ということに気づくべきなのだ。


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ところで――

ウィトゲンシュタインパラドックス』は『哲学探究』のスピンオフだったと見るのがいいだろう。『探究』における最も厄介な悪役が、ウィトゲンシュタインの意図に反して、こともあろうに世界を制覇してしまう。鮮烈かつ悪夢のようなスピンオフ!

なお『哲学探究』の出版は1953年で『ウィトゲンシュタインパラドックス』は1983年。年代としては、たとえば『東京物語』が1953年で、小津へのオマージュ『変態家族 兄貴の嫁さん』が1984年、みたいな関係か。――だから私が、今さら『東京物語』を見るように、今さら『哲学探究』を読んでもいい。

 ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心

 変態家族 兄貴の嫁さん [DVD]
 

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