脳の無数の神経細胞のネットワークのなかに思考や意識が浮上してくると思われるように、現在の私たちの前にあまりに過剰に飛び交うようになっている言葉の数々もまた、ネットワークしている。
神経細胞1個の動きでは脳のネットワーク全体の動きが説明できないように、言葉1個、ツイート1個の意味だけでは、それらがネットワークしたときに浮上する意味のようなものは、やはり説明できないだろう。
それでも、私たちは今まさに、1個1個の言葉やツイートを超えた意味というのを、なんらか捕らえることを楽しんでいるのも事実だろう。
(ツイッター言語変容論:最近よく考えていることに名を付けてみた)
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ところでさっき(29日だが)、連休初日夕刻の新宿アルタ前では飲み会に行くと思われる多数の集団でごったがえしていたが、みな楽しそうな表情を浮かべていた。
そこで交わされる会話(言葉)の役割の多くは、論理でもなく思考でもなくコミュニケーションですらない。
われわれは、なんというか、心というか感情というか生理というか、そうしたものをコントロールして安定させたり楽しくさせたりする方法として、いろいろ会話する。それは動物の鳴き声に近い言葉なのか、それともむしろ、論理や思考のレベルすら超えた「高度」なものなのか。
頭(思考)を秩序づけ安定させるために「言葉」を使うことと、心(感情)を秩序づけ安定させるために「言葉」を使うことの、どちらが進化的に後なのかといった問題になるのではないか! これは面白い。
歌(言葉)を歌ったり聞いたりするのが楽しいときは、その両方が混じっているのかも。
…というわけで、言語の用い方も言語のネットワークの仕方も、けっして1つではないのだという気がしてくる。