人はいったいいくつの歌をすらすら思い出しすらすら歌えるのだろう。何年たっても忘れない。その感触は何年たっても変わらず瞬時によみがえる。サビの1秒でよい。
それにひきかえ、読んだ本はどうしてこう瞬時にすらすら忘れてしまうのだろう。
いやそれは、歌は何度も繰り返し聴くけれど、本は単にあまり読み返さないだけかもしれない。かつて読みふけった本をたまたま読み返したときは、何年たっていても、その感触が、ゆっくりだけど、歌に負けず鮮やかによみがえることは、よく経験する。
1曲の歌をまるごと記憶にしまっておくような要領で、1冊の本も、その全体の中身や印象を、3分くらいのメロディーと歌詞に変換し、繰り返し歌うようにしたらいいのだろうか。
柄谷行人の『探究』とか、だれかポップな歌にしてくれないものか。加藤典洋の『敗戦後論』とか。丸山真男の『日本の思想』とか。アインシュタインの一般相対性理論とかゲーデルの不完全性定理とかなら、案外そのようにしてこそズバリ把握できるものだったりしないか?
本の紹介というのは、ふつうメタ情報でしかない。つまり、その書物(大量の文章の集積)がいかなる本であるかの説明(少量の別の文章の集積)でしかない。そんなことをしていたら、文章の集積が増えるばかりではないか!
書物の内容や感触そのものを3分の歌で表象せよ!
人工知能にお願いするしかないか。
話は横に行くが、『ゲンロン2』の「現代日本の批評」第2回では、柄谷行人や加藤典洋が回想されるそうだ。批評の潮流を長い目でみた結果、ストレートな党派的主張と、それに対する「ねじれ」をもった主張とが、交互に繰り返し現れていることがわかったと、東氏はこのあいだニコ生で話していた。
ストレートな党派的主張とは、柄谷行人らの批評空間系、そして丸山真男などを指し、「ねじれ」というのは、柄谷行人に対する加藤典洋、丸山真男に対する吉本隆明などを指しているらしい。
そんなわけで『敗戦後論』(加藤典洋)が久しぶりに読みたくなった一方、吉本隆明の『柳田国男論・丸山真男論 』というのをちらった眺めてみたら、吉本が丸山をきわめて厳しく批判していて驚いた。人をやっつけるための文章見本としてとっておきたいとまで思った。
さて話がまた戻って。「書物の内容や感触そのものを3分の歌で表象せよ!」と書いたけど、脳はなんらかそうした作業を黙々とやってくれているんだろう。こっち(当人)の気持ちをあれこれ推し量りつつ。そう思うと脳はすごい。