「最後のイゾラド 森の果て 未知の人々」を先日やっと視聴した(NHKスペシャル『大アマゾン』第4集)。
http://www.nhk.or.jp/special/amazon/
NHKカメラマンがひとり目前で撮影したその人々は、ヤンキー系の性格が著しい一家、という感じがしないでもなかった。
つまり「共感できた」ということ。だからこの驚愕は、砂漠のなかでISの一家が目の前に現れたときの驚愕ほどではないのだろう。ISに追われた私は、どちらかといえば、アマゾンの奥地のイゾラドの一家のほうに助けを求める。(彼らは文明との接触が完全にゼロではないので定義上はイゾラドとは呼べないようだが)
さてさて、イゾラドへの強烈な関心というのは、「ホモ・サピエンスの末路は私たち1つだけとは言えない」ということに尽きると思う。
とはいえ、その関心は「私たちこそが正統的・文明的な唯一のホモサピエンスだ」という信念や予測のうえに成り立っている。だから、もう1つの可能性(イゾラド)のことが、たとえば「ああ、ヤンキー系ということなんだな」と「理解」できる。
言い換えれば、「神は私たちを祝福したが、彼らを祝福したかどうかは微妙」ということだ。
では ひるがえって、彼ら(イゾラドの人たち)のほうは、「文明人」である私たちに初めて接触したとき、どう考えるだろう。「自分たちは、ひょっとして、この世の主人公ではないのではないか? 主人公は彼らなのではないか?」と、巨大な疑問や絶望に襲われる可能性があるとおもう。
とはいえまったく反対の事態も想定できる。これは仮の話だが、もしも私たちが、あらゆる面で私たちの能力や文明を凌駕しているようなイゾラドに、どこかで初めて接触したとしたら…。こんどは私たちが「自分たちはこの世の主人公ではないのではないか」と絶望する番だろう。
通常この事態は、「地球外知性との接触」という局面で想像されてきたと思われる。そこからすれば、アマゾンのイゾラドとの接触は「地球内別知性との接触」だったからこそ強烈な関心を呼ぶのだとも言える。
さてでは。
地球内にイゾラドは存在したが、地球外にイゾラドは存在するのか? 4光年離れた惑星に生命は存在するのか。
ともあれ、その生命はホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人でもなくクモザルでもなくラフレシアでもなく椎茸でも珊瑚でもないはずだ。…じゃあ何なのだ!?
何なのかわからないが、それが何であるにせよ、地球の生命とは別の生命が1つでも存在したとしたら、やっぱり「神は地球だけを作った」という信念は揺らぐだろう。「神様は人間だけを特別に祝福した」という信念は揺らぐだろう。
それどころか、もしも仮に(想像すらできにくいが)、私たちを遥かに凌駕する知性や文明をもった生命体が存在していたとわかったら…。それは、「地球はとるにたらないチリのかたまり」「人間もとるにたらないDNAのかたまり」にすぎないという、うすうす感づいていた事実が明白になる日だ。
その事実は、私なりの表現をすれば、「神はいない」「私たちの存在に特別な意味はない」ということになる。
だれかが、イゾラドに殴られても、ISに首を斬られても、ゴジラに焼かれても、それは個々の人や国の自己責任だ。根本的な奇跡は期待できない。「神はいない」とはそういうことだ。
でも、実際には人類はまだ一度もそうした事態(人類をはるかに凌駕した知性との接触)に遭遇していないので、「神はいない」のかどうか、「私たちの存在に特別な意味はない」のかどうか、ずっと曖昧なまま保留にしておける。
では、「人類をはるかに凌駕した知性との接触」ということが、実際にはどのように起こりうるだろう。
ネットとスマホとはまったく異なる交信ツールを手にしたイゾラドがアマゾンの奥地から出てくる? それはありそうにない。地球外知性の襲来? それもやっぱりありそうに思えない。
ありうるとしたら、やはり人工知能がらみか。それはありそうだ。
そして、似たような驚愕と絶望をもたらす可能性がもう1つある。
それは、「お前は人間だと思ってるかもしれないが、お前はほんとはレプリカントだ。あと3年で死ぬようにプログラムされている」と言われること。
(参照:『ブレードランナー』)
……とはいえ、太陽系はわりと特別?
http://www.nikkei-science.com/201608_070.html