東京永久観光

【2019 輪廻転生】

グローバル化 なれのはて


近ごろ先端の思想&メディアを検索するなら「ゲンロン+ニコニコ」ですね。というわけでもないが、宮台真司×東浩紀「ニッポンの展望 #4 2016・春の陣」を、23日に視聴した。

http://live.nicovideo.jp/watch/lv253687500

欧州の中枢ブリュッセルでもテロが避けられず、ありえないはずだったトランプ大統領も実現しそうで、「これはもうダメですね」という嘆きの結論からスタート。ただしそれは「安倍政権のせい」ではないんだよということを、あえて2人はストレートに言う。では「もうダメ」なのは何故か。

近ごろ大抵のことの理由はグローバル化なので、いかにズッコケそうであっても、ブリュッセルテロもトランプ大統領も、ただただグローバル化のなれのはて、ということになろう。東浩紀によれば、70億全員がスマホを持つ時代に近代の理想はムリ、となる。人類に、民主社会は、まだ早い、と。

これを東はもっと平易に言い換え、20世紀中盤に格差は国と国の間にあって同じ国民の間にはなかったのに、21世紀になったら格差は国と国の間より、むしろ世界中の人の間にべったり広がってしまった、といったことを、これまたはっきり言う。

宮台真司も同じ認識で、20世紀には「理想のぶつかりあい」が奇跡的に先進国を支えることができていたが、21世紀には「ただの事実のぶつかりあい」が起こっている、といった言い方をする。

なお宮台は、この日はいつになく低いテンションで、しかもかなり難しい用語でそれを語り続ける。もはや大学の講義。あとからサイト(以下)をみたら、その基盤となるような認識が書かれていた。どうやらこれが対談に影響した模様。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1079

この日の対談は、私なども21世紀の初めごろから、なんとなくうすうす気づくようになった、社会の巨大な変化の潮流を、はっきり指し示していたと、改めて思う。私なりのキーワードにすれば、「近代はつかのまにすぎなかった」「国家や国民すら まさかの終りへ」

グローバル化の帰結として、国や国民という特別枠によるガードが薄れていくというのは、要するに、あらゆる人が、あらゆる砂粒のごとく、流動化してしまうことだと、思っている。

そうすると、じゃあ、現在までの近代社会では、人はなぜ、奇跡的に流動化せずに済んでいたのか、砂粒みたいにならずに済んでいたのか、という問いが生まれる。それを考えて浮かんできたのは、「そうか、中間的な社会が、それを辛うじて食い止めていたのだな」ということだった。

それは、無数の細胞がただ集まって人体が出来ているのではなく、細胞は小さな様々な中間の組織を作り、そうした中間の組織がまた様々な中間の臓器を作り、というふうになっているからこそ、人体はこれほど奇跡的に働くことができる、ということと同じなのだろう。

人体も近代社会も、砂粒をただ積み上げた城ではない。土台があり柱や壁や天井があり用途に応じた多数の部屋があって、本当の城は作られ機能している。ところが、21世紀の社会や経済は、最小単位の個人がただ無数に積み上がっただけの構造になりつつある。大波が来れば砂の城なんて瞬時に崩れる。

またゲンロンの対談に戻るが、宮台真司によれば、性愛やナショナリズムなんてのも、近代のありえないロマン主義(思い込み)でしかない。とはいえ、鎌倉とか室町のころの田んぼとか、中世の欧州の畑とかで、まったく何も考えず働いて食べて寝るだけの自分を、なかなか実感として想像はできない。

だけど、話は相当飛ぶが、先日 日経サイエンスのサイトで、類人猿は「妊娠するのは性交したからだ」ということを知らないみたいだ、という、わりとがっかりする説が飛び出してきて、しかし、そうだよな、人間様には猿様の気持ちはどうしても想像できないのかもなと思った。

http://www.nikkei-science.com/201605_080.html

それと同じで…

奇跡の近代先進国の国民様(私)が、中世の奴隷様の気持ちが理解できないとしても、それは仕方ないことだ。それどころか、奇跡の近代先進国の国民様である自分たちを大いに支えた、非近代地域の住民様の気持ちすらなかなか想像しないのだから。

だけど、ここで本当にしみじみ仰天すべきは、日本国民も少し前には大半が非近代人だったという事実。人類の大半が暗黒共同体の暴風雨のなかで砂のごとく流動化して生きるしかなかった事実。そして「私も昔は猿だった」という事実! それを思うと、脱力もするけど、やっぱり面白いね!

それでまた話が飛ぶが、漫画『ランド』(山下和美)は、舞台がとりあえず日本の中世か古代のようで、そんな時代なら人が死ぬのはわりと当たり前の出来事だったのだろうけれど、それでもやっぱり人々は死を見つめている。漠然とだけど切実に。そして実は死に強烈に抗おうともしている。
 ランド 1 (モーニングKC) (モーニング KC)

というわけで、古い時代の土地や人間の姿、そして日々の暮らしの、鮮やかな描写が、通常はできないはずの非近代への空想を、否応なくかきたてる。

なお、さらに話は飛ぶが、「昔は人も猿に近かった」と単純に言えるわけでもない。たとえば古代ローマなんて驚くべき文化や技術が享受されていたようだ。ジャンク飯、ペラペラ住居、ブラック労働の、21世紀先進日本国民御一行様が、観光したらきっと驚嘆する。古代ローマ人より現代日本人こそ猿。

社会には中間の組織があったほうがいいと昨日書いたが、中間組織をもつのは自然界では生物だけの特徴だろう。無生物の場合、原子や分子がひたすら集まっているだけだと思われる。星であれ銀河であれ、巨大ではあるが、細胞も臓器もなく、どこまでも一様だ。海や陸や山や川もほとんどそうだろう。

そういう意味でも、生物の出現は宇宙において極めて特殊な出来事なのだろう。月なんて、原子地球に原始惑星が衝突して飛び散った物質が再び集まって出来たと言われるが、ただひたすら集まるだけだったので、信じられないスピードで生成されたようだ。太陽も月も単純。地球も生物がなければ単純。

では私たちの社会は、恒星のように単純なのか、人体のように複雑なのか。たとえば世界の経済といったって、貨幣という一様な要素が一様な法則で集散離合しているだけとみれば、単純だろう。日本や米国の政治も、票という一様な要素が一様な法則で集散離合しているだけとみれば、単純だろう。

そう考えると、グローバル化とは、そうした「複雑であるべき社会の自然現象化」と言えるのかもしれない。

そう言えば、件のゲンロンの対談で「べき乗則」の話が出ていた。人間の身長などをグラフにすると中央に山があってそれが平均値だが、べき乗則の現象には平均値が見いだせない。グローバル化による富の集中も、べき乗則の分布を自ずと生み出してしまう、とも言われる。グローバル化べき乗則化?

グローバル世界で流動化する人々というと、ちょっと前に中国深センで起こった途方もない規模の土砂崩れのイメージを思い浮べてしまう。あれも一様な土砂が一様に巨大に積み上げられたがゆえに流動化した。中東から欧州に移動する大勢の難民のイメージも同じく重なる。人間は土砂。貨幣も土砂。

もしかして「土砂」は擬声語


べき乗則を産み出すネットワークについては、いくつか本があるが、その一冊がこちら、『複雑な世界、単純な法則』。ただしさっき私が言ったのは、経済も政治も複雑な世界のようで、けっこう単純な世界なんじゃないか」ということ。

 複雑な世界、単純な法則  ネットワーク科学の最前線

以下の『新ネットワーク思考』も、ほぼ同じ内容で、同じく良質のガイド本。

 新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く