正月気分でつい。すでにUターンラッシュはピークを迎えたというのに…。しかしこの小説、面白い!
1860年代が舞台であり、農奴解放がついに実施され、西からは社会主義思想も入り込み、とにかく激変・動揺の帝政ロシアだったようで、何だか分からぬその新しい波に乗り遅れまいと、首都でも地方でも、有象無象の連中があちこちで議論に明け暮れている。それがまず、他人事に思えない。
IT革命、グローバル経済、さらにはテロ戦争といった激変のなかで、正しいのはオレだ、勝つのはオレだとツイートに明け暮れる私たちの、生き写し。
さらに面白いことに、資産家であるスタヴローギンの母は、そんな連中に投資して雑誌を出そうと企てペテルブルクに乗り込んだりする。それでふと思った。日本で成金は20世紀に比べずいぶん増えたはずだが、金儲けの対象に、そうした純粋学芸方面メディアの立ち上げ、なんて話はついぞ聞かないなと。
それはそうと、なぜ『悪霊』を手にしたかというと、訳者の亀山さんが『ゲンロン1』で対談していて、思い立った。題して「ドストエフスキーとテロの文学」。ほぼカラマーゾフの兄弟の話だが、次に訳した『罪と罰』はあまりいい訳にならず、『悪霊』で巻き返した、とか言っている。
罪と罰、カラマーゾフは読んだし、じゃあ今度は『悪霊』をと思った次第。前世いや前世紀、私の学生時代に「今、悪霊 読んでるんやけど」と関西弁で言ってた同級生Fを思い出す。東浩紀さんなどはドストエフスキーは高校時代に読み耽ったそうだ。まあ普通そうだろう。でも中年以降になってもいいから読むべき本の1つだろう。
ちなみにこの光文社古典新訳文庫は読みやすく、思いがけずページは進む。私は他の翻訳との比較はできないわけだが、亀山さんの努力の結晶なんだろう。それだけではなく、人物たちの造形や会話の内容が、ごく単純に面白いおかげでもあろう。文字が大きく行間もゆったりしているのも吉。
そして対談における亀山さんの発言で、記憶すべき点2つ。1つは、カラマーゾフの兄弟の現代語訳がロシアには存在しないということ。びっくりだ。方や日本には7つも翻訳があるという。近代日本の奇跡(の残照)ではないか。
もう1つは、亀山さんが旧ソ連にわりと肯定的であることを明かしていたこと。引用すると:《西側には評判の悪い、ブレジネフ時代のロシアを訪れた際に感じた七〇年代の空気をよく覚えています。あれほど平和で微温的な時代は、二〇世紀のロシアの歴史のなかでも稀有なものだった。なにしろ「お金」という観念がない。それはたしかに貧しいひとたちの共同体でしかなかったのかもしれませんが、コミュニズムはそれなりに存在したんだという感覚を否定できない。なので、ソ連崩壊は耐えがたかった。》p.191
この発言、現在の日本では1000人中997人くらいは100%拒否するのではと思うが、私は残りの3人に入るかも(首をかしげつつ、きわめて注目すべき視点だと感じてしまった)
一番大事なことを言い忘れていた。カラマーゾフもそうだったが、悪霊も、おそらく当然に「無神論」がテーマになるだろう。さてでは、19世紀のロシアやヨーロッパの人々が無神論に感じていたほどの強烈な逡巡を、ひるがえって21世紀の日本の私たちなら、一体何について感じているだろうか?
それを先ほどちょっと考えて、出てきた答は3つあった。
1つは人工知能。「神は死んだ」なんてのは、極東現代人の私には当然すぎるのだが、だったら今度、私は「人間は死んだ」と、あっさりと諦めることができるか否か。
2つめ。これが最も妥当な答だと思うが、新自由主義的な経済を100%受け入れるかどうか。つまり、現在の私たちは、実は、資本主義以外の異教信仰を、どうしても完全には捨てられないのではないかと、思うのであった。
3つめ。これは1000人中675人くらいに強烈な嫌悪感を与えると思うが、「左翼思想は死んだ」と、なぜ君は思い切れないのか、だ。私もべつに捨てられはしない。だけど、ひょっとしてそれは、ドストエフスキー時代のロシア人がキリスト教信仰を捨てきれなかった錯覚と似ていたら、どうする?
★ゲンロン1 現代日本の批評