東京永久観光

【2019 輪廻転生】

右肩下がりの近代


左翼系思想への長く揺るぎない傾倒から、そこに忍び寄る深い懐疑と、険しさを増しつつあるその凋落。これはかつて西洋世界が直面したキリスト教信仰への疑いに匹敵するくらい大規模なものなのではないか。少なくとも私の半生そして今後を含めた人生全体くらいはすべて覆い尽くすだろう。

それは言い換えれば、近代という歴史の金字塔とも言うべき素晴らしい努力と麗しい果実が、実はほんのわずかの人々が分かち合っただけという、寂しい歴史として可視化されつつあることと同じだろう。

難しく飾った言い方をすることはない。財も知もますます集中化し大多数は動物化し、よくてベーシックインカムで毎日ラインとツイートだけしながら人工知能に心身ともにあやしてもらうという人類の未来が見えます! 大吉? 大凶?

東浩紀宮台真司の対談(ゲンロンカフェ12月25日)では、国家という概念(いいかえれば国民は等しく立派で幸福であるべきという志向)が近代の産物だと言われるのと同じく、恋愛という感情もまた近代が頑張って立ち上げたものにすぎないという指摘に、なるほど〜とうなずいた。

麗しのそして未だ憧れの近代が、少しずつ遠ざかっているという実感を、私が初めて持ったのは、たしか2000年に入ってすぐのころだったか。日本のIT関係のカスタマーサービスを中国大連で雇われた人が薄給でやるようになったというニュースを知ったときだった。

つまり、日本という国や民の幸福の枠を死守するという建前は、ああもう無くてよくなるのだと思った。参照:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040903/p1

あとこれでどうしても思い出すのは、谷崎潤一郎の『細雪』。本筋とはまったく関係ないが、主人公姉妹の屋敷のお手伝いである「お春どん」という人物が、あでやかな喜怒哀楽のなかに生きる姉妹4人とはあまりにも異質で、いわば「自我をもつ近代人」としてはまったく描かれていなかったこと。

そして、当時(戦争前くらい)の日本では、お春どん的な生しか生きる機会のない人々のほうが多数派だったに違いないと、私は想像した。そしてさらに思ったのは、では今はどうなのか、この先はどうなのかと。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060128/p1

結論としては「近代という努力と果実が徐々にではあるが今後も世界の隅々にまで普及しつつある、と期待するのは、もはやかなり脳天気だ」ということになろうか。少しずつ近づいて来ているように見えた近代は、いつからかUターンし、今では少しずつ遠のいているように見える。

砂粒化、動物化、お春どん化。カラマーゾフの兄弟ならスメルジャコフ化。あるいは雲南の三姉妹化(ワン・ビンの映画)。そのプロセスが社会にとって悪かどうかを問うのはもう遅く、むしろそのゴールが人間にとって悪かどうかを問い始めたほうが、もはや益があるようにすら思う。絶望と希望の間。

おまけとしてこの記事。《20世紀の神話は砕け散った。ハンガリーのオルバン首相は、自由民主主義はもはや実行可能なモデルではないと主張した。中国やロシアが成功しているのはイデオロギー的な理由ではなく、より競争力があるからだと語った》(http://toyokeizai.net/articles/-/55092?page=2


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宮台真司×東浩紀「ニッポンの展望2015――2014年総括&2015年大予言!」は12月30日に視聴した。

現在の状況分析にきわめて高い納得感あり。もう年越しOK!(もし800円が惜しいならお年玉で私があげてもいいので、お勧め。

東氏「ポピュリズムとは、あの人も入れるから僕も入れるという連鎖から生じる」。だから、ポリタスのいとうせいこう氏の論は「理論的に危険」。

東氏「ルソーはこう言っている。周りの人間とは一切コミュニケーションをとらず、しかし情報を集めるやつが、その情報に基づいて投票するときのみ、一般意志は生成する」

なるほど… 

しかも「もともと『動物化するポストモダン』で考えていたオタクというのはそれだったんですよ」

そうだったのか!


<訂正> 冒頭を「左翼・リベラル系」と書いたが「左翼系」に訂正。「リベラル」は本来は「自由主義」を意味し、この文章の主旨にはそぐわない。