東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★岸辺の旅/黒沢清

なぜ私たちは非現実的なはずのタイムスリップがありうる気になるのかというと、結局「過去の回想」をいつもいつもしているからに尽きるのであり、それを重くみれば、「回想=タイムスリップ=過去を生きる」は、私たちにとって平易かつ平凡な行為で、もはや現実の1つだと、あるとき私は気づいた。

それとまったく同じく、「死後を生きる」なんてことも、もちろん非現実的だが、「死後を考える」ことを通してなら、それも現実の1つになる。黒沢清の映画『岸辺の旅』をみて、そう気づいた。過去も死後も無いっちゃ無いけど、後からそれを思うことや先にそれを思うことで、過去も死後も実在する。

そうするとこうなる―― 過去を思うから悔しい。悔しくないためには過去を思わなければよい。死後を思うから寂しい。寂しくないためには死後を思わなければよい。たしかにそのとおりだが、私は、悔しくてもいいので過去を思いたい。寂しくてもいいので死後を思いたい。

それどころか、『岸辺の旅』のごとく、誰かが死んだあとの自分や、自分が死んだあとの誰かを、今のうちからさんざん思い尽くしておけば、ひょっとして、死ぬのがひたすら寂しいわけでもなくなるのではないか? ……なんてことすら思いつき、しみじみしてしまったのだった。

死後を考えるなんてとても奇妙だが、そもそも過去を考えるのだって同じくらい奇妙なのだから、引け目に感じなくてよい。そして、自分や誰かの死後を考えるといっても、その主な素材は、自分の現在と過去そして誰かの現在と過去だろう。「過去を思う」と「死後を思う」は、そもそも似た行為なのだ。

それにしても『岸辺の旅』に映される町や村はあまりに魅力的だった。深津絵里が扮する妻でなくても、もうここで2人でずっと暮らそうよ、と口にしてしまいそうだ。

黒沢清の映画では、生きている人が消えたり、死んでいる人が蘇ったり、よくする。特段の説明も前触れもなく、ふいに。いつもその理由や意図を考えてなかなか答に行き着かなかったのだが、今回の『岸辺の旅』は、もう冒頭からそんなことは引っかからなかった。死んだ人が帰ってくるのは自然だった。

それは、先ほど書いたように「死後を生きる」「過去を生きる」ことが私たちの心の中では自然なのだと私が気づいたからかもしれない。あるいは、「映画における自然」というものが、または黒沢清が考える「映画における自然」というものが、もともとずっとこうだったからなのかもしれない。

◎『岸辺の旅』公式サイト:http://kishibenotabi.com/

静かであまり明るくないリビングで、カーテンが外の光を透き通らせながら風に揺れている。それは何でもない風のようであり、何かのせいで高まっている風のようでもあり。幽霊はそんな昼下がりに現れる。


……と、ここまでの穏やかな感想を、もしや逆なでしかねないエントリーを、最後に1つ。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52204445.html(あなたの人格を学習し、人工知能が死後もコメントや投稿を書くソーシャルネットワーク「ETER9」が誕生)


<応答>
自分自身や特別親しい人は、毎日かつ何十年も心の中にいるので、架空でないからでなく日常的という理由から、強い現実になるのでしょう。 すると架空の人もつきあいが長く深ければ現実みたいになるのかも。私の場合、村上春樹の小説の主人公とか…そこまでのつきあいはないか。

アイドルと同じく友人や家族もいくらか架空だったりするよね。そのとき、ネットばかりで交流する相手はより架空かというとそうでもなくて、メールやツイッターの言葉はむしろ実質的な交流のようにも感じられる。でもやっぱり、実際に会うことの強さは我々はなかなか否定できない。