8割自粛期間は、生活8割ネット期間だったともいえるので、Amazonプライムで映画も少しみていた。
たとえば『Love Letter』(岩井俊二)
3度目の鑑賞かと思うが、ちょっとどうかしているだろう(自分が)と言いたいほど純真に感動し涙も流し、ごく素直に支持と敬意を評したいと思った。ところが…
ところが、翌日に『ニンゲン合格』(黒沢清)をみてしまった(これも3度目くらいか) これまでに勝手知ったる自分のいくつもの種類の感動のうちの1つですら出てこない。涙も言葉も出てこない。この今の自分の心の奇妙さ不穏さはいったいいかなる情緒なのか。まったく見当がつかない。
黒沢清、いつもいつも、ほんとによくわからない。といっても、高尚だとか難解だとかとは大いに異なる。いろんな出来事が次々に起こるし、だらだらしていても、そのままだらだらずっと見ていたい気になる。途中で休んでも、その変な感触はすぐ戻ってくる。
陳腐なたとえだが、聞き慣れた音階とぜんぜん違うモードの音階なので、どう聞いていいかとまどい不安定でしかたない、という感じか。ふいにおかしなもの(馬とか)が出現してくるのも、そのたとえでいえば、転調ということになろう。しかし、そうしたたとえでは、この気分はあまり収まらない。
『Love Letter』のような物語に、自分の人生をチューニングしてみることは、よく行われているだろうし、本当にそのようにチューニングされることも、ときにはあるだろう。
では『ニンゲン合格』のようなものはいったい何なのだろう。チューニングの間違いなのだろうか? あるいは独特のチューニングなのだろうか? よくわからない。
『Love Letter』のようなチューニングこそ「良い人生に決まっている」とまでは言わないにしても、『Love Letter』のようなチューニングが「つまらない人生だ」とも思わない。
いや『Love Letter』は傑作だし感動的だ。また見るだろう。問題は『ニンゲン合格』だ。わからないのにまた見るだろう。
(参考)
http://wasedashochiku.co.jp/lineup/2008/akaruimirai.html
「家族とは絶対的なくせに希薄であり、偶然の産物でありながら濃密であるといった厄介な関係であった。逃れようとすればするほど絡みつき、掴みとろうとするとするりと逃げていく、それが個人と家族の関係である。それを運命と呼んでもいいし、まぼろしと呼んでもいい」(黒沢清が、『ニンゲン合格』が劇場で公開する際に語った家族についての考え とのこと)
――いやこの弁もなんかもっともらしいだけだろうと疑わしくおもえる。
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25日、東京 品川区の大井競馬場から馬が逃げ出し、近くの交差点で車とぶつかる事故がありました。関係者によりますと、現役時代、逃げ馬として地方競馬で活躍した馬だったということです。近くの防犯カメラには、馬が車道の左端を走る姿が記録されていました。https://t.co/ss8zoiyV9C#nhk_news pic.twitter.com/sB8brLHSpd
— NHKニュース (@nhk_news) 2020年5月25日