過去10年くらい「言語ってなんだろう」「宇宙ってなんだろう」というのが気になることの中心テーマだったとするなら(そうした大げさな物言いをするなら)、最近は「生死とはなんだろう」というのが中心テーマかな。特に「死とはなんだろう」だ。
しかし、「死とはなんだろう」という問いは、いかにも深遠な問いにきこえるが、実はロマン主義に過ぎないのではないかと、ふと気づいた。つまり、死というものを考えるときに、人間や社会にとっての根源的な意義や価値を絡め過ぎているのではないか、ということ。(自戒として言っている)
そのように疑うのは、「宇宙とはなにか」という問いも長年まったく同じくロマン主義的に考え過ぎていた、という反省があるからだ。
そのロマン主義の夢が覚めたのは、佐藤文隆氏の直言によってだった。
◎ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130726/p1
では、宇宙がべつに深遠でも神秘でもないように、死が深遠でも神秘でもないとしたら、死をどう捉えればいいのか?
死を、その単純な事実として捉え、それ以外のややこしいものとしては捉えなければよい。
ちなみに、上記とまったく同じ構図の落とし穴が、こんなところにもあったか……と、昨夜気づかされて驚愕した。それが以下。
◎https://joshi-spa.jp/673429 「セックスに愛情や承認を求めるな!世の中をもっと低く見積もろう」
これは要するに「性がロマン主義に洗脳され過ぎだよ」という指摘だろう。
――というわけで、根源的な意義や価値なんてものは、宇宙にもないし、生死にもないし、性にもない、ということなる。
じゃあどこにある? たぶんどこにもないのだ。
言い換えれば、この世のすべてにはその事実だけがあり、そこに意義や価値など元来は存在しない。そもそもすべてはナンセンスなのだ。
とはいえ、そんな事実だけの世界に人間は耐えられない。人間の存在の意義や価値とは何だと問うてしまうのが人間なのだから。
だから結局、ナンセンスなものにセンス(意義や価値)を問わずにはいられないのが人間なのだろう。少なくとも近代以後の人間なのだろう。それを過ちとみなすか、 尊いとみなすか?
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そういえば、先日もこう書いた。
◎「死が納得できないのは単なる不合理なのかもしれない」