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【2019 輪廻転生】

読んで忘れてまた読んで


蓮實重彦の本格的な評論「『ボヴァリー夫人』論」の連載が、文芸誌『新潮』で2014年1月号から始まっていたのだった。
 新潮 2014年 01月号 [雑誌]

……というか、単行本がすでに6月に発刊されていたのだった!(新潮は連載ではなく冒頭のみの先行掲載とのことだったらしい)
 「ボヴァリー夫人」論 (単行本)

今やっと「序章」を読んでいるが、文学ジャンルとしては今年の重大ニュースだろう。ところが、蓮實重彦の『ボヴァリー夫人』論」が始まった云々のたとえばツイートなどは、今日の今日まで一度も目にしなかった。一体どういうことかと思う。

小説というテクストは、その小説をめぐるテクスト(新聞や雜誌などのレビュー)を先に読んだあとから読むものであるという、ヘンテコな慣習が続いてきたが、これは『ボヴァリー夫人』が出版された19世紀半ばのフランスあたりから始まったのです。――という主旨のことが同評論の冒頭で指摘され「なるほど〜」と相変わらずいきなり引き込まれてしまったわけだが、しかし翻ってわれらが21世紀初頭の日本を考えるに、小説というジャンルの凋落は甚だしく、空前の情報洪水時代にありながら文芸誌や小説などの作品をめぐるテクストなんてほとんど目に触れないのが現状でははないか。いやしかし、そのおかげで今や、文学作品のテクストだけは、文学をめぐるテクストに振り回されたくてもあまり振り回されることなく、孤独にまっさらな気分で読むことができる! 少なくとも私の実感ではそうだ。

もちろん21世紀初頭の文学状況は特殊だろう。しかし特殊というなら、19世紀だって懐かしの20世紀だって文学状況などというものは常にそれぞれ特殊だったのだ。フローベルの『ボヴァリー夫人』こそは、「散文は生まれたばかりのもの」という歴史的な認識をいだいた作者が初めて書いた散文のフィクションである、ということがこの評論でも前提とされている。では、21世紀の読者である私たちは、散文のフィクションというものに、散文のブログやツイートというものに、あるいは散文というもの全体に、いったいいかなる歴史的認識を抱いているだろう。自覚しているかどうかはともかく、その認識は19世紀半ばに負けずかなりヘンテコなものだろう。

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さて、この評論の焦点が何であるかを「序章」は予告している。著者がまず指摘するのは、そもそも1つの「文」の単位で起こることは言語学などの方法で解明できるとしても、それらの文がたくさん積み重なった小説などの「テクスト」もしくは「言説」の単位で起こることは、それとは大きく異なるという点だ。これを決定的な事実として重視し次のように表明する。

「『ボヴァリー夫人』論」の著者は、矛盾する複数の「文」の共存がきわだたせる「不確かさ」、あるいは「曖昧さ」を、この作品ならではのフィクションの「テクスト的な現実」と呼ぶことを提案する。この「批評的なエッセイ」では、『ボヴァリー夫人』に露呈されるこうした「テクスト的な現実」との遭遇を介して、書きつがれることになるだろう》(新潮2014年1月号 p.176)

この、文とテクストでは起こることが異なる例として著者が最初に挙げるのは、『ボヴァリー夫人』に出てくる箱馬車。小説の始めでは馬車の窓から外の風景はほとんど望めないと描写されていたのに、後になると同じ馬車の窓から沿道の光景がしっかり見えているように描写されていること。

そして、こうしたことが何故起こるのか、その原理を述べている文章が、じつに身にしみて興味深い。

いま自分が読みつつある「文」のたったひとつ前、あるいは二つ前、三つ前の「文」がどのような語の配列からなっていたかを鮮明に記憶しているものはおそらく一人としていまいという点では、順序をめぐる無関心と呼んでもよい。それは、「文」における語順がその意味の決定に不可欠でありながら、「テクスト」の場合はそうではないということを示唆している。それぞれの「文」のおさまる文脈に大きな変化がなく、そこに表象されるイメージがある程度まで一定に維持されているかぎり、人はたったいま読んだばかりの「文」を思考のうちで正確に再現しようとはせず、その場で忘れるにまかせる。いま読みつつある「文」そのものを忘れないかぎり、「テクスト」を最後まで読み続けることはおよそ不可能であり、そのかぎりにおいて、「テクスト」は一瞬ごとの忘却を惹起する言語的な装置だというべきかもしれない》(p.172)

その場で忘れるにまかせる! 読書の実相を見事に言い当てているとも思える。

さらに、この原理を次のようにたとえる。

《……その意味で、「テクスト」を読むことは、どこかしら「生」を「生きること」にも似ているといえる。「文」を読むことは、それに反して、いささかも人生には似ていない》(p.172)

「テクスト」の煽りたてる記憶喪失によって、誰もが、そのつど、いま読みつつある「文」だけを肯定するしかなく、「テクスト」の全域に視線をはせることなどできはしないからだ。つまり、意味の異なる二つの「文」は、「テクスト」においては、ともに肯定されるしかないのである。「テクスト」を読むとは、この矛盾、この曖昧さを受け入れることにほかならず、必然的にその決定不能性と向きあわざるをえない。「テクスト」を読むことが、どこかしら「生」を「生きること」に似ているといわざるをえないのは、そのためである

矛盾、曖昧、決定不能、それこそテクスト、それこそ人生! 

たしかに人生のほうも首尾一貫した信条や道理に基づいて歩んできたつもりなのに「振り返ると全然そうなっていないな、おかしいな」と首をひねることが多い。だがこれもまた小説的テクスト的という性質を踏まえて理解し批評することが大事なのかもしれない。

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蓮實重彦の文学評論をきちんと読むのは久しぶりだが、以前これほどわかりやすく親しみやすいと思ったものはなかった。いかにも難しげな文章をものはためしで読んでみるといった趣向が主だったと思うのだ。いやそれは蓮實先生のテクストが、もしくは蓮實先生のテクストを読んだ人生の記憶が、ただ必然的にもたらす忘却のせいか?