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【2019 輪廻転生】

★死んでいない者/滝口悠生(芥川賞)


 死んでいない者


芥川賞滝口悠生「死んでいない者」を文學界12月号で読んだ。お通夜に集まった親族たちの、ありふれた行動を淡々と追っていくなかで、それぞれの人物像と状況、親子や兄弟としての微妙な関わりあいが、平凡ながらも切実な現実味を伴って、みごとに織り上げられていく。

いかにも文芸雑誌の巻頭を飾りそうな、たしかに芥川賞をとりそうな、穏当なと形容したいような小説だと思った。(不遜な言い方だったかもしれないが、このままに)

ところで、先日『ゲンロン1 現代日本の批評』で「昭和批評の諸問題1975-1989」という討議を読み、柄谷行人らが強硬に牽引する文芸批評が、実際に流通する小説作品からはどんどん無縁になっていった時期を、詳しく知らないながらも、ありありと思い出し、感慨深かった。
 ゲンロン1 現代日本の批評

そんなわけで、「死んでいない者」に引きこまれながらも、でもこれって柄谷行人的な文芸批評においては、まるきり無視されるたぐいの小説かもな〜と、別の意味で感慨深かったのだ。

柄谷行人の難解な文芸批評、あるいは蓮實重彦の別の意味で難儀な文芸批評などは、小説作品をあえてこぞって置いてきぼりにしてでも、どうしても格闘すべき何ごとかと格闘していたのだと、私は、ぼんやりとだが確信しているし、その批評言説は変態的に刺激的で面白かったとも思う。

だけど、いわゆる文学ファンにとってのいわゆる文学は、そうした柄谷的な批評とは離れたところで、しっかりした内実を伴って何十年もあまり変わらず生息してきたとも、私は強く思う。「死んでいない者」はその真ん中にあるように感じられる。

そしてふと思う。たとえばお通夜の席にある親族20人が集まったとして、『ゲンロン1』を読むような批評オタクは、ふつうは1人もいないだろう。でも「死んでいない者」を読んでみたという文学ファンなら1人くらいいるかもしれない。

そして、そのような文学ファンは、いつも心から小説が好きで小説を上手に読む。私も文学ファンでありたいが、彼らの熱意や読解にはまったく及ばない。じゃあ私が批評オタクかというと、それもまったく及ばない。ただ批評オタクは数がきわめて少ないので、日本人の平均よりは私は批評を読むほうだろう。

文学ファンと「ファン」と書いたのは、小説作品への純然たる敬意。批評オタクを「オタク」と書いたのは、批評行為へのいくらかの自虐。


滝口悠生「死んでいない者」についてもう一言だけ。描かれている出来事は自分が体験しているかのようだった。その都度の視点人物になり変わりつつ。複数の場所と時間をワープしつつ。文字情報なのにエピソード記憶になりそうな勢いなのが不思議だ。