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【2019 輪廻転生】

ジャズ誕生、ツイッター誕生


NHK『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』の再放送で、ジャズの回以降をだらだら見ながら考えた——


ジャズの誕生そしてビバップの誕生は音楽の革命だったということなのだが、ツイッターの誕生によるテキストのインタープレー的な応酬というのも、だれも予想していなかった革命を今しもやっているのかも。コードがどんどん複雑になるというのは、ツイートのテーマに付随するサブテーマがどんどん花開いていくようなものなのではないか。


マイルス・デイヴィス『Kind of Blue』。コードからモード(スケール)へ。これはテキストにおいては、ツイートにおいては、どういうことだと思う? はい、そこの君。教えてください(ツイートで)


私たちの文章も、コード進行に決定的に縛られているとしたら、それをどう解放するのか。マイルス・デイヴィスがやったことは、結局「ルールを減らした」(大谷能生


即興をすればよい。それはそうなのだが、いくら自由に演っている(書いている)つもりでも、それは音楽や文章の従来のコード進行になってしまう。それでは即興の意味がない。そこで、コード進行の基礎ともいうべき和音を捨てて、音階だけを決めて、そうして自由にやりなさいとマイルスは命じた。それがいわゆるモード(ふつうの長調短調とはちょっとちがってヘンテコなスケール=音階)だった、ということなのだろう。(ちなみに、君が代なんかも、「レ」で始まって「レ」で終わるので、モードだと思う)


というわけで、チャーリー・パーカー的なツイートがあふれているところに、マイルス・デイヴィス的にクールなツイートをするのが、「理想です」!


さて、今考えている問題を改めて示すなら——


問題:テキストやツイートにおいて、従来のコードにかわるモードによる生成とは、いったいどういうものなのか?


ビバップ・ジャズとモード・ジャズなんて、ただ聞いていて違いに気づく人はそういない。が、説明を聞くと「なるほど、ぜんぜん違うことをしている」と思う。そうすると、聞いていた音楽も「なるほど全然違う」と気づく。だから、私たちが日夜一斉に書いているテキストにもそうしたことがもうとうに起こっていて、ツイートひとつとっても、「革命前のコード・テキスト」か「革命後のモード・テキスト」か、「わかる人にはよくわかる」「変えている人はとうに変えている」という事実があったりするのではないか。


——政治哲学のリバタリアンに対するリベラリズムの登場、そしてコミュニタリズムの登場もまた、似たようなことだとも言える。(というか、サンデル先生に続いて坂本先生をずっと見ている私は、正月早々勉強好きだ)


テレビはフリージャズの話になっている。フリージャズ、つまり、なんでもあり? 「独特の歪んだ音色によって生々しい感覚を表現」「リズムも自由」なのだという。これは直感的にわかりやすい。そうすると、新時代のテキストもまた「何でもあり」でよいのか? ただし、山下洋輔によれば「グルーブはないのに、自分ひとりのグルーブは常にある」。「何やってもいいけど、責任があるんですよ」 ……あれ、やっぱり、政治哲学?


サックスの指づかいを変則的にして音色を拡張する、ピアノの鍵盤でもおかしなことをする、そんな奇異な試みがフリージャズとして行われたという。パソコンのキーボードなら「qあswでfrgtふじこ」 これじゃなかろうか!


そのころ音楽の変革は思想の変革だった、でも今は思想の変革を伴うような音楽の変革はみられない、とスコラの出演者たちは言う。——そうだろうか。そうかもしれないが、そうではないかもしれない。たとえば初音ミクなんて、まさに「思想の変革を伴うような音楽の変革」だったのでは? ほかもいろいろ例は思いつくだろう。

(革命ということについて考えるなら、どんな革命であっても次のようなことが言えると私は思う。革命は「昔起こった」のか? そうかもしれない。あるいは、革命は「知らないうちにじわじわと起こってしまい、もう起こらない」のか——私はもっともこれがありそうな答だと思う。しかし、革命は「今起こっている」と、常に、毎晩、思い続けることもできる)


だいたい、ツイッターにおけるハッシュタグ(#)なんて、ビバップより、モードより、いやジャスの出現に匹敵するほどの、卓袱台ひっくり返し、ではないか?


ここで勝手に話を広げてみる—— 


武満徹は「私は、単なる郷愁(ノスタルジー)で調性(トーナリティー)を選んだのではなく、調性というものを、この世界の音楽大家族の核にあたるものだと信じている」と述べたことがあるらしい。——これは、谷川俊太郎の詩を武満が再構成したものを少女が読みオーケストラが音楽を演奏する「若いひとのための音楽詩」(1995)に関して述べたものだという。


ここでいう「調性(トーナリティー)」こそ、西洋クラシックによって完備されてきた強烈な縛りとしての長調短調の音階やコード進行を指す、と思えばいい。「調性はいわば自然なものだから、まあしょうがないね」 武満徹さんすらそう感じていたということになる。


そうした調性のようなものが、文章を書いたり読んだりしていく際にもあるかもしれない、ということが言いたい。苦心して心地よいテキストを目指すけれど、結局誰もが、自然的で古典的な文章に行き着くほかないのではないか、ということ。


ここで私は「文法」の話をしているだろうか。それとも「文学」の話をしているのだろうか。あるいは「論理」について? あるいは「物語」について? ——そういうもののすべての基盤において、文章の「調性」が潜在しているということはないのか、という話をしているのだ。(追記:「すべての基盤」というのは言い過ぎだ。「すべての関連」と言い直そう)


——『スコラ』は、リズムやベースの回に入っている——


それなら、同じ問いをリズムやベースのたとえで続けよう。テキストにおけるリズムやベース。ここでは、140文字という枠がそうした土台に当たるかも。


番組をみて、リズムやベースというのは「身体」と切っても切れないのだと改めて思う。(あまりに当たり前だが)


【では問題です】テキストにおけるS(主語)やV(動詞)もまた、身体とは切っても切れないものなのでしょうか?


言語と身体という問いでは、いつもレイコフのことを私は思う。どういうことかというと—— 「さすがに論理などは人間の身体とはまったく無縁だろうよ」ふつうそう思う。ところが、「メタファーの喩えは、すべて最終的には、人間の身体的なイメージの喩えに行き着く」といった主旨のことを、ジョージ・レイコフは主張している!


論理はベン図にすると理解しやすい。たとえば「良い薬は苦い。この薬は苦い。ゆえにこの薬は良い薬である」が誤った推論であることや、「良い薬は苦い。この薬は苦くない。ゆえにこの薬は良い薬ではない」が正しい推論であることは、言葉だけだと分かりにくいことがあるが、ベン図を描くと一目瞭然。このことをめぐって、レイコフは「人間は袋状の身体をしており、じつはその袋状になった身体のメタファーとして、このような論理というものが成立している」というふうに、考えているらしいのだ(これらは正確な引用ではないのでご注意)


関連エントリーはこちら:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060510/p1


つまり、レイコフはこう言っているのだ。〈人間は袋!〉 それが論理の基礎だと。


さて、テレビでは「ハロー・グッバイ」を演奏中。リンゴ・スターのドラムは「おかずがいっぱい」だという。ツイートもなんかそんな、たどたどしいけど、よくみると、いらないんじゃないかというほどの、おかずがやたらに多いツイートが、いい!(かも)


同様のたとえをもう一つ。テキストにおいても、ミュートしてパーカッシブに入れる単語やフレーズというのがあるように思う。(細野晴臣ベースの回を見ながら)


もう一つ。昔のシンセにはベロシティがなかったという。つまり、鍵盤を押す力の強弱によって出る音の強弱を変えることが出来なかった。しかし。ひるがえって考えるに、現在もこのキーボードにはまだベロシティがないじゃないか。強い感情で打つと、その強い感情が、ブラウザにも反映されなきゃ! コンピュータなんだから。


そしたら坂本龍一がこう言った。「インターフェースとして、パソコンより楽器(のほうがフレキスブル)です」と。ほら、やっぱりね!


◎元ログはこちら http://twilog.org/tokyocat/date-110104/asc