東京永久観光

【2019 輪廻転生】

最高の離婚

フジテレビのドラマ『最高の離婚』は友人の勧めもありオンデマンドも交えて視聴した。軽妙にして深刻なストーリーがめまぐるしく展開、まるきり隙のない面白さだった。ただ個人的には実は、瑛太が演じた光生という人物が比類なく捨て置けないパーソナリティだったことが、かくも目が離せなくなった最大の理由だったと思う。桜が嫌いで、好きな言葉は「がらがら」。あるいはもしかして「光生を演じた瑛太という人物」こそが捨て置けないのかもしれず、なんとも不思議な心持ちだ。

さてさて夫婦とはなんぞや。非日常の奇跡によって完遂されるものではなく、いわば終わらぬ日常を受容する境地にしか行き着く場はない。そんなところにドラマもまた行き着く。そう私は感じた。宇野常寛もそうだったようだ(『ダ・ヴィンチ』の連載参照)。そして宇野は、この『最高の離婚』を大いに愛しつつ、しかし、私たちの現実生活がネットによって覆い尽くされた情報生活をしのぐほど幸福でありうる可能性を、このドラマは示せたか、といった趣旨のことを問い、示せてはいないと結論する。

私も同感だ。現実の苦悩を本当に克服し現実の生活を本当に幸福にするレシピをこのドラマが最後に示したとは思わない。ただ、なんだろう、このドラマは、コメディであったせいもあろうか、もろもろの生活や苦悩をとりあえず回収し救済すらしてくれたようにも感じてしまう。これまた不思議な心持ちだ。


……上の2つの不思議な心持ちの正体は、よくわからないのだが、以下のように考えてみた。


そもそもあらゆるドラマの生活が描き出す感情や思考は、現実のようにみえるが、実は観念といっていい。このドラマが苦悩を笑いにまぶしつつ着地し救済すら感じさせたのも、それが現実の苦悩ではなく、観念の苦悩であるからだろう。

しかし、ここからが重要だが、私たちはもはや現実を生きているのと同時に観念を生きている。それは、われわれが小説を読むようになり映画やドラマを見るようになって以来、自明のことだ。もっと言えば、われわれが言語を使い文字を使うになって以来、感情や思考とは観念のなかでこそ紡ぎ出されているのではないかと、一度は想像してみるべきだ。

ましてや…。このことを言うのはもう「101回目」くらいだが、私たちのネット過多生活ぶり、すなわち言語過多生活ぶり、すなわち観念生活過多ぶりに、いいかげん気がつくときが来ている。

言語とは現実ではなく観念であり、現実の私たちがほとんど言語によって生きているなら、私たちの現実とはほとんど観念だ。

「悲しい」と言うとき、人の心は、――なるほど心自体は他のどの心自体とも同一ではないけれど――、「悲しい」というまったく同一の記号を介していずれもがつながってしまう。それは言葉が現実ではなく言葉が観念であるおかげだ。

東京にいて地震に遭遇したあの日の記憶も、光生と結夏の1クールにわたったラブストーリーも、今ここで文字を書きとめ浮きぼりにしようとしている思いも、現実か観念か、そう簡単に区別できることではない。

下の写真とあのドラマのどちらが現実でどちらが観念かも、そう厳密に区別できることではない。


 *

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130412/p1 からの続き
最高の離婚 オフィシャルサイト http://www.fujitv.co.jp/saikouno_rikon/index.html


 **


♪ Love is real.「愛は現実である」


♪ Nothing is real.「何ものも現実ではない」


…おいジョン、ちょっと来い!