暗い部屋に一人で閉じこもり1日を完全にパソコンに向かって過ごしていれば、その日の体験はパソコンから得た言葉や音や像が大半になる。そうすると、そのパソコンデータがそのまま保管されいつでも再生できるなら、その1日は過去でも未来でもなく常に現在として再体験できる。タイムスリップは可能。
こんなことを思うベースには、コンピュータの普及によって、人間の認知(周囲の世界との触れあい方)が変わったというより、人間の認知がそもそもどういうものだったか(どういうものに過ぎなかったか)が、まったく違った角度で見えてきた、ということがある。
認知のそうした見方では、妄想(ネット)と現実(リアル)は区別しにくくなるだろうが、そこで注目したいのは、「妄想と現実の橋渡しをしているのはやっぱり言語かもしれない」ということ。つまり、たとえば「私は内弁慶です」とツイートしたことで「そうか自分こそあの弁慶なのだ」と思い込む、とか。
あるいは、現実と妄想の二項があって言語がそれを橋渡ししている、というのは間違った見方かもしれない。それよりも、ある部分は現実と呼ばれ、ある部分は妄想と呼ばれるところの、認知や意識の総体(言語による世界像の総体かもしれない)が1つあるのかもしれない。
ともあれ、言語を介して周囲の世界を捉えている人間は、それゆえにもともと、過去も未来も超越した存在かもしれなかったし、妄想も現実も超越した存在かもしれなかった。そんな大変なことが近ごろのパソコン生活のなかで初めてふっと実感されてきた、という日常報告である。