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【2019 輪廻転生】

つまり、私のいない読書?


青木淳悟『私のいない高校』を読んでいる。

 私のいない高校


この小説に「何が書いてあるのか」はわかる。ところが、この小説が「何をしているのか」がわからない。

言い換えれば、ふだん小説を読んでいて「この小説はいったい何をしているのか」と首をひねることはない。なぜなら、小説はたいてい小説らしいからだ。書く人は小説を書くようなことをするし、読む人は小説を読むようなことをする。

ふだん読んでいる小説がことごとく小説らしいものであったことに、そうでない小説を読まされれることで、初めて気づかされた。という図式。

では、この小説はふだんの小説とどこが違うのか。「何をしているのか」がわからないのはなぜか。

そう問いかけて誰でも答がわかるようにと、タイトルを「私のいない高校」にしたのだろうか?

というわけで、たぶん、この小説には「私」がいない。「私」を「主人公」と捉えてもいいだろう。もうちょっと踏み込んで「近代的自我」とか言ってみてもいいだろう。

小説には多様なキャラクターと多様な設定があっていいはずなのに、明治以来の日本の小説では私というキャラクターと現実世界という設定だけがずっと特権化されてきた、という主旨のことを大塚英志が書いていた。《小説を書く文章というのはお話を書くよりは「私」について書く方に適した形で、いうなればゆがんだ進化の仕方をしたものである》(『物語の体操』)

そうした主張がおのずと思い出される。ただし、『私のいない高校』が、そうした肩肘張った主張を読むような読書かというと、まったくそうではない。のめり込めるはずのない小説になんだかけっこうのめり込んでいる。

なお、それより先にもう一つ膝をたたいたことがある。映画監督の黒沢清が「なんで映画って人間ばっかり描くんだよ」と強くぼやいていた理由が、「なるほどそうか、こういうことだったのか」と初めて明瞭になった気がしたのだ。

黒沢清の映画が仮に「私のいない映画」だとしたら、その鑑賞の仕方と、「私のいない小説」かもしれないこの小説の鑑賞の仕方とは、互いに参考になるのではなかろうか。

では、それってどんな鑑賞の仕方なのか。

以前この作家の「このあいだ東京でね」という小説を読んだとき、ふつうの小説がサッカーや野球のように楽しむものだとしたら、この小説は、一人ひたすらジョギングでもし続けるように書いたり読んだりするといいのかもと思ったが、実際どうなんだろう。

さてそもそも――。私たちは近代というのを相当長くやってきた。だから近代でないような時代が来ていたとしたら、私たちはおそらく自分たちがいったい「何をしている」のか、さっぱりわからないにちがいない。

 *

映画はおそろしい/黒沢清 asin:4791758706
 過去のレビュー:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090226/p1

キャラクター小説の作り方/大塚英志 asin:4061496468
 過去のレビュー:http://www.mayq.net/junky0304.html#08

物語の体操/大塚英志 asin:4022643005
 過去のレビュー:http://www.mayq.net/junky0211.html#17

このあいだ東京でね/青木淳悟 asin:4104741035
 過去のレビュー:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20081019/p1