東京永久観光

【2019 輪廻転生】

原発話法


http://t.co/AxFg0zJF 高橋源一郎「午前0時の小説ラジオ」「あの日」からぼくが考えてきた「正しさ」について

これを読んでぱっと思ったこと(以下)


アーレントがつきつける「正しさ」はたしかに厳しすぎるし息苦しく感じる。しかし、「原発賛成が正しいか、原発反対が正しいか」「現在の放射線量は安全なのか、危険なのか」ならば、本来それほどの憎悪や呪縛に満ち満ちた議論にならなくてもいいのではないか。

たとえば、「東京は今、星が出ている」これが正しいか正しくないかの議論は、べつに息苦しくない。「ヒトとサルは祖先は同じだった」これが正しいか正しくないかの議論は、人によっては少し息苦しいかもしれない(が、人によってはまったく息苦しくない)。「南京で殺された人は30万人」これが正しいか正しくないかも、人によってはかなり息苦しい(が、必ずしも息苦しくなければならないわけではない)

では「日本は原発を廃止するのが正しいか、正しくないか」という議論や、「福島から出てきた放射線で大勢ががんになるという予測は正しいか、正しくないか」は、どうか。これらの議論も息苦しくなければならないわけではない。「今、東京に星が出ているかどうか」くらいの、息苦しくないものであっていい。(終)


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「100000年後の安全」というが、そんな先のことなど、どうでもいいじゃないか(つい本音を言ってしまった男)

なぜなら (1) そもそも、たとえば電灯や自動車やテレビやツイッターのせいで、私たちの体や心は過去とは明らかに異なるものになってしまっている。せいぜい100年くらいの話ではないか。

なぜなら (2) すでに私たちはただの貧乏やただの病気でそうとう苦しんでいる。たった今そうである人も多い。10年後にそうなりそうな人も多い。

「私以外のだれかが100年後にどう苦しいか」を考えることは、私たちの責務だ。だが同時に、「私が今どう苦しいか」を考えることも、私たちの責務だ。後のほうが忘れられていると言いたいのだ。