東京永久観光

【2019 輪廻転生】

心のお天気


人のできることが私にできないのがつらいのか、人のできないことが私にできないのがつらいのか、というか、できるとか、できないとか、できものができたとかできないとか。


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仕事を山にたとえれば、とにかく登ろう登ろうとする人と、とにかく降りよう降りようとする人がいる。

 
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うつ病、そううつ病統合失調症。それに適応障害、性格障害、不安障害、パニック障害、などなど。どう違うのかは、それなりにはっきりしているが、なぜ違うのかとなると、それはもうほとんどわかっていない。

この分かりにくさは、何にたとえれば、うなずけるか。

ある人が生まれついて以来ずっと窓のない建物の中だけで生活しているとする。暑い日もあれば寒い日もある。からっとした日もあればむしむしする日もある。その組み合わせは複雑だが、実感としていくつかの傾向が見出され、それらを「A状態」「B状態」「C状態」と区別するかもしれない。

しかし。「A状態」「B状態」「C状態」の違いの本質が何なのか、その原因は何なのかというと、いろいろ考えても、なかなか見えてこない。

もちろん我々はそれを知っている。すなわち、「A状態」「B状態」「C状態」とは、「晴」なのか「雨」なのか、「昼」なのか「夜」なのか、「夏」なのか「冬」なのか、そうした単純な要素の組み合わせから形成されているのだと。

(心もまた「晴れ」か「曇り」かなのではと考えるのも面白いが、しかしそれは単に天気に当てはめてみただけで、脳の反応の区分としては適切ではないだろう)

そんなわけで、精神疾患もいろいろあれど、実はみんな、要素となる特定の神経細胞活動の組み合わせでした、ということになるかもしれない。たとえば「ほげ神経」「うが神経」「へほ神経」(仮称)といった具合。

それが従来言われてきたとおり、セロトニンノルアドレナリンドパミン等のことであるなら、本当にそうなら本当に面白いが、実際どうなんだろう?

ちなみに、メタボを産み出すのは「高血圧」「高血糖」「脂質異常」などの要素の組み合わせだということになっている。体のほうは心に比べてまだしも解明がしやすいのだろうか?

高血圧・高血糖・脂質異常という検査でわかる数値自体はたしかに明瞭だ。しかし、ではその高血圧などを産み出すモトは、いったい身体の何ですかと問われると、結局まったくわからんという気もする。

とはいえ、内臓は内部を調べることが脳に比べれば容易だし方法も普及しているとは言えるのだろう。「脳は採血検査もなければ内視鏡検査もありませんよ」という指摘を知り、なるほどとおもった。


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今回の仕事は徹夜がほぼ無かった。そんなことで喜ぶのは、「今月のカブールは爆弾テロがありませんでしたね」と喜ぶのに似て、すごく高い目標が達成できたような、逆に、人の暮らしとしては目標が低すぎるような、複雑な気持ちだ。

異常気象がどうの、地球環境がどうの、生物多様性がどうの、そんなことより、きみの生活の環境や多様性の危機のほうを、もっと問うべきじゃないか。


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上記のように「高血圧」と書いた(つぶやいた、ツイッた)ら、高血圧関連のところからフォローがあった。フォローするほうは検索でもするのだろうか。そういえば、おすすめユーザーというリンクが出来ている。どうやらフォローしあっている人がフォローしてますよという情報らしい。

なるほどと思う。こんなふうにしてネットワークは密になっていく。はてなのアンテナ、トラックバック、キーワード、ブックマークの時も同じことを思ったが、ほんと「神経細胞ニューロン)のネットワーク」そっくりに見える。

ネットワークの原理、要するに「ネットワークが効果的にはたらくために、どんな繋がりの形が最適か」の答えは、けっこう単純な答えに落ち着くのではないか。(これについては、『単純な法則、複雑な世界』あるいは『新ネットワーク思考』といったとてもよい本があった)

神経細胞のつながりも、人と人のつながりも、あるいは生態系(食べたり食べられたり)も、あるいは体内の代謝も、そのネットーワークを線で表すと、その形は驚くほど似てました! といった話。

いや、そうじゃない。今言いたかったのはそうじゃない。神経細胞のネットワークも人と人のネットワークも、複雑さが一定のレベルを超えたとき、個々のネットワークのレベルで起こっていたことからは想像もつかない、とんでもないことが起こる、ということが言いたかった。

たとえば自分という意識などは、そんなふうにして生まれるのだろう。そしてブログやツイッターのつながりにおいても、一定のレベルを超えて複雑になった段階で、見知らぬなにかがぼうっと立ち上がってくる気がするのだ。それを「ネットワークの自己」(というか事故?)と呼んでもいい。

…ただし、それを意識できるレベルというのは、私やあなたの個々の意識ではなく、もっと上層のなにかかもしれない。ということは、もう書いたのだった。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20091018

まあけっきょく創発ということか。

もうひとつ面白いのは、ネットサーフするとき、結局なんらかのリンクを辿って様々なページをみていく。我々にはそれしかできない。脳のニューロン1個1個もまた、すでにある他のニューロンとしかつながれない。

 
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内田百間「立腹帖」。ただ普通の出来事が書いてある。それだけに思えるのだが、なんともふしぎな感興がまきおこる。こうした文章はどこに秘密があるのか。百間はなんらかの狙いを込めて書いていたのだろうか? 

インタネットでは、こうした味わいの日記も、おそらくたくさんあるが、でも、もっと刺激に満ちたテーマやキーワードに関心をほとんど奪われて、目を留める余裕がなくなっているにちがいない。

なんで読書がネットにことごとく負けるのかというと、私の場合、椅子にもたれて、足を机の上にあげながら、片手の一差し指を動かすだけで、どんどんテキストが読めるからだ。机の前をいったん離れれば、本ほど便利な媒体はないが、机の上ではパソコンは便利。M&Dも電子化してください!

本を読む正しい姿勢というのは、そもそも、あるのだろうか。高いテーブルを使い、立って読む方が、集中できるということはないか。

このあいだなくなった森毅さんは、布団に腹ばいになって本を読むのだということを、大昔だが、言っていた。たしか筑紫哲也がやってたころの朝日ジャーナルではなかったか。実際、寝床で、あの顎を少し前に突き出すような姿勢で、本を読むカラー写真が出ていたような記憶がある。真似ではないが私も多い。


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ゼンマイじかけのカブト虫という歌がありましたね。井上陽水

http://www.youtube.com/watch?v=Ou23xcRcDRw

昆虫は異性から来た生命体ではないかという話もあるが、それはそれとして。

ゼンマイ式のカブトムシは壊れても捨てるだけだが、セイメイ式のカブトムシのほうは、壊れて(死んで)そのまま捨てるというのはなんだかよくない気がする。その時私たちは、けっきょくのところ宇宙や神を畏怖しているのではないか?