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【2019 輪廻転生】

結局どこに帰っていく?


長谷川和彦青春の殺人者』をDVD鑑賞。asin:B00005QYOY

伝説的な映画であり、語るネタには事欠かない。しかし今回最もお勧めしたいのは、付録でついていた長谷川監督の長いインタビューだ。

ごく最近収録したようだが、これがじつに面白い。この映画をめぐってごく普通に聞いてみたかったようなことを、監督はひとつひとつごく普通に語ってくれている感じだからだ。

企画が持ち込まれたときどんな話だったのか。撮影におけるさまざまな苦労(行き当たりばったり、間抜けな失敗、怪我の功名といったことが多い)。水谷豊、原田美枝子市原悦子らそれぞれの役者の印象と演出の工夫。全編に流れるゴダイゴの音楽をどう思いつつ採用したのか。原作の中上健次とのやりとり。映画は千葉県で現実に起こった殺人事件が題材だが、そのことに対するコメント。長谷川監督は、いずれの問いにもあまり予想外でない答えを勿体ぶるところなく語り続ける。だからかえって真実味が感じられる。そうして結局のところ、映画を作る現場というか実務とでもいうような部分の、具体性と、得もいわれぬ快感らしきものが確実に伝わってくる。

長谷川和彦30歳のデビュー作だった『青春の殺人者』は、1976年キネマ旬報の作品賞をはじめ監督賞、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞を受けた。まさに大型新人監督の出現であり日本映画界は作り手もファンもどよめいた。第2作が1979年の『太陽を盗んだ男』(ASIN:B00005NDHD)で、こちらはキネ旬第2位。ところが以降、長谷川監督が長く映画を作らないまま現在に至っていることは、あまりにも有名だ。だから、このインタビューで何かの話題に関して作り手としてのちょっとした信念を述べ、「オレは今後もそうしたいと思っているんだ」みたいに言ったあとで、ふと我にかえり、「…今後って、今後はあるのか、おい…」(いずれも正確な引用ではない)と自分につっこみのつぶやきを入れていたのは、ちょっと笑えた。

付録のみならず映画自体ももちろんお勧めなのであり、あれよあれよと素っ裸になってしまう原田美枝子17歳の奔放さも特筆すべきだが、あれよあれよとシュミーズ姿(というのか)になってしまう市原悦子40歳の鬼気のほうはさらに凄い。この映画を評する大半の人が圧倒させられているシーンだ。

その鬼気迫る市原悦子はこちらで見られる。http://jp.youtube.com/watch?v=QH-KWtO6cPQ このあとが最大の見せ場。

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さて。この映画における殺人は「動機が不明」と言われることがある。たとえば、インターネット上の孫引きで恐縮だが、評論家川本三郎は以下のように書いているらしい。

順の親殺し殺人事件というドラマティックな殺人には実は古典的殺人事件のような「憎悪」「怨念」といったはっきりとした動機がない。加害者である順自身が、おそらくは自分がなぜ親を殺したか説明しきれない」(http://mycinemakan.fc2web.com/cinema/page9.htmより)

しかし私は実際彼の気持ちはよく分かると言いたい。というか、主人公が父を包丁で刺したのは、二人のどんな会話が引き金だったのか、それが徐々に明かされるストーリーでもある。母親まで殺した理由はそうした鮮明さを欠くものの、息子が母親にいだく鬱陶しさとはなかなか普遍性があるものであり、そういうところで一般的な共感は得られていると思う。

もちろん、親子や恋人といった直接の人間関係の背後に、世相の影響というのは間違いなくあるだろう。川本三郎もじつはそれが言いたいのだ。すぐあとにこう述べる。

そうした言ってみればムルソー的な現代の「理由なき殺人」の根拠をあえて求めるとすれば、この京葉コンビナートに象徴される、都市と農村がぶつかり合う風景になるのではないか

しかし、この「1970年代の都市化していく田舎」という状況は、漠然としたものではなく、むしろ私たちの多くが共通して体験し実感してきたことなので、動機として不明というよりは明瞭と言ったほうがいい。(70年代が遠い過去になったおかげで当時の世相というものが明瞭になったということもあろうが)

ではホントに動機が不明の殺人というと何が思い浮かぶか。私なら、このあいだやっと見た青山真治監督の映画『Helpless』だ(asin:B00005HAYF)。浅野忠信が喫茶店の男女を殺す理由がやっぱり分かりづらい。というか、むしろ『Helpless』は全体に動機不明と感じられるところにポイントがあるのかもしれない……それはもしかしたら新しいことなのだろうか……そういえば黒沢清の映画『アカルイミライ』で浅野忠信が上司の笹野高史を殺すのもかなり唐突だった……じゃあ昔は動機が分からない殺人というのは描かれなかっただろうか……と考え、そうだ『青春の殺人者』はどうだったっけ、ということでDVDを借りて来たのだった。

そして実際に『青春の殺人者』を見れば、よけいに『Helpless』の奇怪さは際だつ。(ちなみに、それに比べたら秋葉原無差別殺人の動機なんて分かりやす過ぎる) 

青春の殺人者』の舞台は千葉県。工業地帯の風景と合わせ、まもなく開港となる成田空港につながる道路がよく映し出される。主人公の青年(水谷豊)が父親の資金でスナックを建てさせられたのも、その道路沿いの原っぱだ。アイスクリーム売りから身を起こし今はタイヤ店の自営業で儲けるようになった父親は、この辺りは成田空港によって人があふれるようになるぞと期待する。しかし青年は父母の望みとは正反対の幼なじみの女(原田美枝子)を彼女にしてしまい、店を二人で切り盛りしている。

『Helpless』は1989年の北九州市門司が舞台で、公開は1996年。工業や港湾の風景を含めて差し挟まれる土地の風景は、映画の物語とあいまってか、あるいは時代を反映してか、まさに停滞感が濃厚だ。さらにさびれた場所に一件のだだっぴろい喫茶店が建っており、浅野忠信はその店に立ち寄って接客してくる男女を殺すことになるのだが、その喫茶店の停滞感やその男女が醸し出すまがまがしさといったらもう、浅野忠信のあの独特のムード以上に濃厚だ。

中途半端に都市化した田舎の町に若い自分が閉じこめられているというのは、ほんとにまとわりつくようなイヤなかんじを普遍的にもたらすものだと思う。ただ、『青春の殺人者』が映し出していたのは成田空港がこれから開港しようという時代であり、基本的にそこにはアカルイというか本来の意味で明るい未来が、2000年代から振り返ればかもしれないが、読みとれてしまう。日本という国はそこからさらにぐっと成長し、やがて世界で一番の経済国として注目されていく。そんな歴史も私は直接知っている。ところが『Helpless』の89年以降あるいは96年ごろとなると、やはり日本は停滞するのであり、国も地方もどこを眺めても先行きのじわじわした不安やくだらないあがきしか目に入らない。そんな不景気の日本しか知らない青年の絶望感というのは、『青春の殺人者』の青年の絶望感とはやはり隔たったものではあるのだろう。殺意もまたかなり隔たっていると考えることもできるだろう。誰かがすでに言ってそうな感想だが、たしかにそうは感じられた。

ところで、『青春の殺人者』は、青年がもうにっちもさっちもいかなくなってエンディングとなる。しかしそこにはまったく逆に温かみいっぱいの印象的なバラードが流れてくる。そのタケカワユキヒデのボーカルが繰り返すフレーズは、なんとまあ、I'ts Good to be Home Again だ。

これについて監督の長谷川和彦はインタビューで、この歌詞はまあなんとなく映画の内容とも合っているからいいのではないかと思った、という趣旨のことをとりえあえず発言している。

青春の殺人者』の青年が殺したのは親でありまさに家だったと言える。ところが最後の最後に誰しも帰りつきたいと思うのは、結局その家にほかならないのだよ、とそんなふうにまとめると、まったく不思議なことだが、すべてがなんだか納得できてしまい感動すらしてしまう。少なくともこの時代からずっと生きている私はそうだ。

では一方、『Helpless』に出てくるのは、I'ts Good to be Home Again などとしみじみ歌い感じ入ることなどもはやない青年なのだ、ということになるのか?

現代は絶対的な価値基準が消え失せた時代だということになっている。だからこの国もこの親も、縛りを与えてこないかわりに頼りにもならず親しみもわかない。……でも本当にそんな時代なのだろうか?

逆のことも言える。神や国やドルの物語が失墜し、ひとりの人間はどんどんただの砂粒みたいになり、それらの関係がどんどんフラットに分子的になっていく一方で、じつは親もしくは家という小さな特別な構造の存在感だけは、かえって異様に強まっているとも。そこがなにをおいても絶対的に帰っていきたい場所であり続けるのか、それはたしかに微妙ではあるけれど。

(それとは別の話になるが、映画というのは人間や社会に比べて歴史は浅いわけで、だから映画が帰っていくところというなら、それはまだけっこう共通して固定しているのではないか。長谷川和彦監督が永久に期待の星であり続けるのは、『青春の殺人者』がそうした映画の道のど真ん中をしっかり歩いているという実感を当時の多くの人々が持ったからだろう)


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青春の殺人者』は私は公開から3年ほど後に映画館で見ている。飯田橋かどこかの名画座だった。原田美枝子が水谷豊を何度も呼ぶその名が他人の名に聞こえず、困った。一緒に見た2つ3つ年上の先輩も映画館を出てすぐそのことで私を冷やかした。この映画はそれ以来だとおもうが、DVDで見直したら、一つ一つの台詞によって、当時それを聞いてああこんな感覚やこんな思考が渦巻いたという記憶が、そっくりよみがえってくる。あまりにも不思議なことだ。

なにかと懐かしく、『キネマ旬報ベスト・テン80回全史1924-2006』という冊子を開いてみた。1976年(昭和51年)。外国語映画の第1位は『タクシー・ドライバー』。それにしても、1976年は2008年からみれば32年前なのだが、1976年にとっての32年前というと1944年になってしまう。名画座ってもうほとんどなく、今はシネコンばかりで、先日新宿のピカデリーで『20世紀少年』を見たときに「ああこれがシネコンか」と思ったが、それくらいの変化があるのは当然なのだ。

だらだらと書いてきた。結論としては、「Helplessや黒沢清は分からないというのが正解というわけでもないだろうから、もっとよく考えよう」ということを別にすれば、「80年代の映画も面白いが70年代の映画も面白いね」ということにつきる。何度か言っているが、映画を見るというのは出来事の回想というより出来事の再現というべきだ。フィルムに刻まれた人物や風景や音声自体はいつまでたっても同一で、歴史書のように解釈やノスタルジーでねじまがったりは本当はしない。

水谷豊原田美枝子は、この当時のテレビドラマ『探偵物語』第5回「夜汽車で来たあいつ」で、兄妹役として競演している(asin:B00005O6SE)。そのDVDを最近初めて見て、なんだ『青春の殺人者』の二人じゃないか、ああ『青春の殺人者』また見たいな、と思ったこともあったのだ。この「夜汽車で来たあいつ」はおそらく演出が秀逸であるせいで、松田優作があまりにも素晴らしい。それについてはまた書きたい。ただ『探偵物語』はもちろん『青春の殺人者』のような直接の重さはほとんど脱色され、そういう点では80年代の軽さを先取りしているのかもしれないが、それもまあみんなが言っていることだろう。


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太陽を盗んだ男』は以前レビューを書いた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040427#p1