東京永久観光

【2019 輪廻転生】

もがきの街から、殯(もがり)の森へ


生きてるってどういうことですか? この忙しいのに、それがまさか実のある問いだとは私たちはふだん思わない。なぜなら「生きる意味」なんて、たとえば学校の道徳の時間とか美しい国教育再生会議の提言とかが得意の、まるで空疎な問答だと思い込んでいるから。

ところがこの問いは、本当はもっとも身近でもっとも切実な問いにほかならない。あまつさえ、その答えすら探し出すことができる。私たちのだれもが。そのことを直球ド真ん中で示してくれたのが、この映画なのだった。

そうか、死者と本気で触れ合うようにしてであれば、生者とも本気で触れ合うことができるのか。時にはかけがえのない死者のだれかを思いぶつかっていくこと。そして時には、かけがえのない生者のだれかを思いぶつかっていくこと。それが私たちには不可欠で、生きていることの実感も価値もそれを抜きにしてはありえない。

もちろん生者との触れ合いには相互作用がある。触れれば触れ返す。肌は温かい。これほど素晴らしい事実はない。それにひきかえ、死者は息をしない。体も言葉も失っている。死者は生き返らない。そうかもしれない。そうかもしれないが、かけがえのない死者とのそのつながりを諦めてしまうとしたら、この自分が生きないことにも等しい。したがって、そのつながりを諦めてしまうことは、生者との本当のつながりも諦めてしまうことになる。だいいち、死者との触れ合いといっても、事実としては生前の触れ合いの記憶や今いる生者との触れ合いを経ずにはありえないだろう。かくして、生きる人と死んだ人とは間違いなく呼応していく。そうした死との呼応を知って初めて人は生の大切さが分かる。やはりそうなのだ。

――そんなことをじわじわと思わされた。明らかに希有な映画なのだ。というわけで、褒め言葉はもう十分だろう。その静かで激しい1時間半をだまって体験されたし。

河瀬直美監督『殯(もがり)の森』 http://www.mogarinomori.com/


 *


以下ではひとつだけ違うことを述べる。

私は『殯の森』を見ながら、あのような山中のあのような民家で、惚けはじめた人たちの世話をする仕事に、生き甲斐を見いだせる可能性はたしかにあると思った。あのように惚けはじめて介護される人としても生き甲斐を見いだせる可能性はあると思った。

ところが、自分もひょっとしてあの人たちのごとく生きてみたいのかもと思うほどには、自分もひょっとしてあのように素晴らしい映画を作ってみたいのかもとは、不思議に思わないのだった。(奈良で文化活動にいそしむなか監督と居酒屋で会ったのが縁で、身近な協力者であり続け、今回は監督のオファーで役者に初挑戦といった人生なら、非常に生き甲斐たりうると思うのだが。――公式サイトうだしげきさんの紹介より)

それはこういうことと関係がある。ちまたに現代美術と呼ばれる表現がある。あれはいったい何をしているのか。要するにみんな「美術とは何か」というテーマこそを自己言及的に表現しているのだと考えてはどうだろう。そうすると謎が溶けた気になる。そういうふうにみれば、19世紀の近代絵画だって当時は現代絵画だったにちがいない。だからミレーもクールベもモネもセザンヌも、「どうやったら本当のことが絵に描けるのか」を追求したのと同様、「本当のことが絵に描けるとはそもそもどういうことなのか」をも追求したのだと想像する。そこは20世紀のピカソモンドリアンやウォーホルと変わらない。いや絵を描くという行為には、その始源から「こうやってオレが何か描くってどういうことなんだろうね」という問いは常についてまわったとみることもできる。

文学もそう。映画もそうだろう。人がそれを演じ人がそれを撮影するとは、それを映写するとはいったいどういうことなのか。すなわち「そもそも映画って何」というテーマが、作家性の強い映画にはときおり現れる。

映画も美術も小説もそれによってなんともややこしく分かりにくくはなるものの、表現行為とはやっぱり、そうした自己問答や自己言及にまみれてこそ面白くなる。いやそれは制作するほうも鑑賞するほうも好みの問題かもしれないが、私にもし表現のチャンスがあったなら、たぶんそうした自己言及を表現の本質として取り入れたくなるだろう。(そのような自己言及は『殯の森』では感じなかったということ)

もちろん、映画とは何かという問いを、映画を作ったことのある河瀬直美監督は、映画を作ったことのない私に想像できないほど懸命に問うているのは当然だろう。そして、作品が仕上がった次元でそうした問いが消え去っていても、むしろ至極正常で正当な手順によって作品の質を高めた結果なのだろう。

ただまあ、同じ日『殯の森』の直後に『大日本人』を見たせいもあって、なんとなくいろんなことが気になったのだ。

しげきと真千子が雨にあうシーンと、火で暖まったシーンと、その夜が開けたシーンは時系列に沿って演じたのかなとか。そもそもあの雨はどうやって降ったのかなとか。しげきさん以外のお年寄りたちや坊さんの存在感は、事実であるとしても事実のように作ったのだとしてもあまりに素晴らしいなとか。それにひきかえ、『大日本人』のドキュメンタリー風の枠組みはあまりにうさん臭くて面白いなとか。それでいてあの素人ふうの作業員や街頭の人物のホントっぽさはまったく何なのだろうとか。

●『大日本人』については http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070720#p1


 *


それにしても、森はたしかに日本の風景のはずだが、今やトトロの森と同じくらいファンタジーに属する風景だったりはしないだろうか。私たちは、安普請のアパートにコンビニやファミレスの風景と、そこで吐息をつくばかりの惚け老人を題材に、なお生きている実感の見つけ方を示しうるのだろうか。もがきの街。