東京永久観光

【2019 輪廻転生】

言語の限界


言語は論理から独立できない。(文法や構造)
言語は意味から独立できない。(概念や物語)
言語は行為から独立できない。(語用や生活)
それと同じく
言語は自然から独立できない。(身体や進化)


でも、これは人間の言語のことであり、
コンピュータやグーグル検索における言語事情は、
ちょっと違っているような…


■■■


コメントを受けて

コンピュータの言語は人間から自由になれないというと、養老孟司さんの原理みたいなかんじですね。都市も製品も人工物はすべて脳が作り出したと。その通りかなと思います。その一方、その人間の脳もじつは自然が作り出したのだとすると、コンピュータも自然の一部ということになるんでしょうかね。どうなんでしょう。

 *

ところで上記メモをまとめた理由

言語に関する学問のうちズバリ「言語学」と呼ばれる領域では、言語を統語、意味、語用などに分けて論じてきたようで、その3つの区分けを、私自身がことばを使ったり眺めたりして実感するようになった括り方で整理しておきたいというのが一つ。しかも、「論理」「概念」「行為」といった私にとって重要な用語を割り振ることができそうだったから。

ただし、こうした言語学においては、言語の進化や起原を探ろうという動機はあまり現れてこないようで、だからこそ「進化」や「自然」という括り方は別に立てておいたほうがよかろうと思ったことがもう一つの理由。

なおこれらの整理に加え、認知言語学というのが言語学の亜流のような位置にあり、また言語学とはまったく別の位置に言語哲学と呼ばれるものがあると思う。

 *

さて最後の「コンピュータやグーグル検索における言語事情は、ちょっと違っているような…」という部分。

これは、我々が現在初めて直面している言語事情であり、だからやっぱりもっとわくわくしていいしもっと研究もしていい出来事ではないだろうか。その感触や興味の正体はうまく言い表せないのだが、にわかに噴火をはじめた火山みたいなもので、これに注目せずしてどうするという気がする。

うまく言い表せないとはいえ、少しだけ。

これは言語がメディアとして大きく変容しているぞという実感なのだ。

音声だけだった人類が文字というメディアを発明したとき、言語はどのように働きを変えたのか。続いてその文字があまねく浸透するようになった出版印刷というメディア革命で、言語はさらにどのように働きを変えたのか。

そしてインターネットが出現し、とりわけグーグル検索が世界を覆いつつある今、さてさて言語のメディア性は一体いかに変容しているのか。すなわち、世界と人間の仲立ちとして認識を織りなしていく言語の、その織りなし方は、やっぱり未曾有の変貌を遂げているように、毎度ながら私は強く感じるのだ。

もう少し言うと。

「言語に意味がある」というのは「言語が記号である」ということにだいたい等しいと思われる。歴史上いつの頃からか私たちにとってあらゆる物事は、その物事自体の意味だけでなく、何か別のものの記号としての意味を持つようになってしまったのだ(不思議なことに)。たとえばマッキントッシュという物は、それだけの意味に収まらず、別の多くの物事の記号として意味を生じさせている。たとえばご飯とみそ汁を家で食べるという事も、それだけの意味に収まらず、別の多くの物事の記号として意味を生じさせている。記号として意味をもつのは物事だけではない。物事と同様、あらゆる言語がまた、その言語自体の意味に収まらず、他の言語や物事を指し示す記号となって無数に多くのことを意味する。「癌」は単に癌だけを意味しない。「靖国神社」は単に靖国神社だけを意味しない。

では、言語が記号として多数の意味を含むとして、それらの意味を読んでいたのは誰だろう。それはまぎれもなく私やあなた、すなわち人間だったろう。
ところが。たとえばグーグルのコンピュータが探し示す無数の言語はどうだろう。その「意味」を読んでいるのは、同じく人間だろうか。どうもそうは言いがたい。意味を読んでいるのは、いわば機械だ。

そう捉えてみて、「記号=人間が意味を読む」「情報=機械が意味を読む」という整理ができるように思っている。

それについては過去にもちょっと書いた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041017#p1

さらに加えて考えたことが以下。

言語の意味が「記号的意味」から「情報的意味」へ変容したとだけ見るのでは足りない気がしてきた。新たな言語の意味として、もうひとつ「生理的意味」とでもいうべきものを付け加るべきではないか。

結局こうまとめられるかもしれない。言語はこれまで長いあいだ「記号としての意味」を持っていたのだが、その「記号としての意味」が徐々に、「情報としての意味」と「生理としての意味」の2つに分裂しつつあるのではないか、と。

そもそも「言語の生理的意味」って何? これもうまく言えないが、とりあえず、言語の記号的意味を読むのが人間の知識だとすれば、言語の生理的意味を読むのは人間の身体だというふうに言っておきたい。動物化と工学化(環境管理化)が同時進行するという現状分析が、ここにきれいに重なるようにも思っている。

具体的には…。またいずれ。



■■■(コメント欄を受けて追記 7.18)



■killhiguchiさん

>言語は論理から独立できない。(文法や構造)
というのは、論理を文法と同一視しているようで、素直には首肯できないのですが、もし宜しければ詳しく御説明願えないでしょうか。言語は幾らでも非論理的に用いることができると思います。


■tokyocat

言語を論理的に用いないと非論理的で間違っていると感じられることが、すなわち言語は論理から独立できないということになる、と考えたしだいです。そしてこれは、言語を文法的に用いないと非文法的で間違っていると感じられることと非常に似たことだと思うのです。また、ある言語の諸々の文法を抽象化したり多数の言語の文法を抽象化したりすることが段階的にできると思うので、構造という用語も記しました。論理と文法とがどんな関係にあるのかは、これからよく考えたいです。論理学が実際の言語使用を分析して論理を整備していったように、実際に文法として知られている多様な規則からそれらを貫く一様な構造が見いだせるのではないでしょうか。そうするなかで、我々の言語がそこから独立できないものの核心が、より明らかになると期待します。(もちろんこれらは誰かがすでに明らかにしているのかもしれません)

私も論理と文法を同一のものとして扱ってはいませんが、言語による思考や認識の基盤として除去できないところは共通しており、じつは同根だったのだということになる可能性はあると思っています。


■killhiguchiさん

>「記号=人間が意味を読む」「情報=機械が意味を読む」という整理
ここでは同じ「意味」を人間も機械も読んでいることになりますが、そうでしょうか。言語が記号であることは言語が意味を持つのと等しいと私も思います。けれど、その記号が機械に読まれている時に、機械は「意味」を読んでいるでしょうか。記号列を読んでいるのは確かですが、それは言語として読んでいるのではないでしょう。あくまで記号列として読んでいるのではないでしょうか。機械に「意味」はあるのでしょうか。


■tokyocat

この整理の場合、両者にとって「意味」の語義は異なります。機械は人間が読むような意味は読んでいない、人間は機械が読むような意味はふつう読んでいない、ということになります。機械には人間が読むような「意味」はないと私も考えるわけです。

それなら、わざわざ情報という曖昧な用語を出して「機械が読む言語の意味=情報」としたのは何故か。

それは、うまく名づけられない私の実感をあえて名づけようとしたとりあえずの結果です。うまく名づけられない実感というのは、先に述べたとおり、ブログやグーグルを使うようになって言語のメディア性が大きく変わったという実感です。とりあえず「機械が読む言語の意味=情報」と仮においてみることで、何か見えてこないだろうかと期待しているわけです。


■killhiguchiさん

 情報とは幾つもの意味で使われますが、第一には記号列そのものでしょう。それには意味は関与しません。第二には、tokyocatさんが仰っているように、記号間のリンクの上に成り立った新たな何か(リンク?)でしょう。しかし、それはあくまで記号体系内での出来事のように思われます。意味は豊穰になりますがあくまで記号のことに思えます。


■tokyocat

そう思います。コンピュータは、「台風の翌日は晴れる。きょうは台風の翌日だ。だからきょうは晴れる」という計算をするときも、「a⊂b, c⊂a ∴ c⊂b」という計算をするときも、どちらも、「台風」や「晴れる」に我々が持つような意味は持たないと、私も思います。

それなら、機械の言語にわざわざ「意味」などを持ち出すのはなぜか。これも上記と同じ目的です。あえて「機械が意味をもつとしたら何だろうか」と問い、そのような特異な意味が浮上するという想像のなかに、ブログやグーグルの浸透のなかで感じている違和感の正体を探ろうと、私は思っているのです。


■killhiguchiさん

 そのうえで、情報=記号列と考えた時に、やはりそこからはみ出してくる記号の性質があって、それが記号の身体性なのではないかと思います。それは、結局、記号の形式と意味との乖離を意味しているようにも思えます。


■tokyocat

ここは正確には分からないのですが、私の違和感と似たようなことかもしれないとも思います。


■killhiguchiさん

 我々はネットの海で記号列と戯れていて身体を置いています。まま、ネット上でいくら議論しようとも、その議論を引き受ける身体=主体がネット上にはいない為に、議論はいつまでも意味の核心にたどり着けません。ネット上の議論が膠着するのはその所為ではないかと思います。


■tokyocat

「ブログやグーグルの浸透のなかで感じている違和感」と言ったことには、こういう側面も含みます。我々の言語が論理から逃れられないのと同時に意味からも逃れられないというのは、こういう事実に立脚しているとも思っています。
 
いろいろありがとうございます。私は用語を吟味せず断定的に使う傾向があるようですが、大げさに言えば戦略的にそうしてあとで丁寧に修正してもいいのではないかと考えてしまうのです。またいろいろご指摘ください。(主語問題についてもまだ返答していませんが、今しばらくお待ちを)