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【2019 輪廻転生】

★飯田隆『分析哲学 これからとこれまで』(続)

◎ https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2023/05/29/000000 から続く

 

飯田隆分析哲学 これからとこれまで』、おおよそ読み終えた。

私がウィトゲンシュタインフレーゲに反射的にのめりこんできたのは、「言語や論理には世界の構造が反映されているのか!?」というひらめきや覚醒をありありと感じたからだと思う。

ところが……

この本を丁寧に読むと、むしろ、言語の構造が世界の構造だというのは「錯覚です」という趣旨の断言がされている。論理ですら、古代に整備された命題論理や現代に整備された述語論理だけが論理というわけではありません、とも書いてある。

初めてそれを知ったみたいな感想になった。しかし思い返せば、飯田先生は常にそうした慎重な態度だったかもしれない。『言語哲学大全』もとぼとぼ歩くようにどうにか読みついできたが、そこでも実は、論理や言語をめぐる性急な錯覚こそをひたすら解きほぐそうとしていたようにも思い出される。

なんというか、人は……、というか「私は」と言うべきだろうが、どうしてこうも、きわめて大事なことを、そのつど強く思い知り、それなのに、そのきわめて大事なことを、そのつど激しく忘れ去ってしまう、のだろうか!

本の感想より人生の感想になってしまった。

ついでにもう1つ余計な発見を書いておく―― 

「行間を読め」とよく言うが、言語哲学の本ないしは飯田先生の本は、行自体が全てを最適に記述している。行間など読まなくていい。そもそも行間を読まないといけない本など不完全と評すべきではないか。

 

さて、先ほどの「言語の構造こそ世界の構造を体現する」という可能性への強烈な志向。多くの人が思い起こすのはチョムスキーの主張だろう。「あらゆる言語で文法は普遍。しかもそれは人間の脳に先天的に埋め込まれている」といった発想。しかし実際の言語は融通無碍の多彩さでそこをはみ出す。

 

もう1つの「論理というものはなにしろ普遍的だろう。誰もそれをはみ出ることなど考えられない。ひょっとして、人類を超え地球を超え宇宙を超えた何かなのではないか?」――これはむしろ私自身の長い期待ないしは信仰だ。そして論理はやっぱり、多彩だったり融通無碍だったりはしないんじゃないか?

しかし「そうではないでしょう」と飯田先生は私たちをなだめているわけだ。

なお、たまたまあるブログに行き当たった。インドの論理学が紹介されている。論理が宇宙を超えるかどうかはわからないにしても、少なくとも論理学は古代ギリシャや現代西洋だけではないことが、よくわかる。

あるブログとは以下(一連のシリーズ)。まだちゃんと読んでいないが、命題論理との差異が垣間見えているようで興味深い。それと、「因果」が定式化されているようなフシもある。現代の一般的な論理学は「因果」を扱っているんだっけ? という根本も気になってきた。

 

もう終わるつもりだったが、もう1つだけ追記。

先ほど「実際の言語は融通無碍の多彩さで(チョムスキーの普遍文法を)はみ出す」と書いた。これはチョムスキーに寄り添う人からは「そんなことありません」と叱られるだろう。そこはチョムスキーの普遍文法が最終的に何を指すのかにもよるだろう。

 

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